2017年8月2日水曜日

詩篇34篇6節


この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、
すべての悩みから救い出された。(口語訳)

この悩む者が呼ばわったとき、
主は聞かれた。
こうして、主はすべての苦しみから彼を救われた。(新改訳)

この貧しい人が呼び求め声を主は聞き
苦難から常に救ってくださった。(7節、共同訳)

今、詩篇を読んでいる。
この箇所は救いの確信を得た箇所であり、というより主にギブアップした箇所である。通読していてこの箇所にくると当時のことを思い出す。

集会に集うようになる半年前位に聖書の通信講座をやっていた(といっても少し適当だったが)。聖書の概略は少し分かったけれど聖書は自分の知識の範疇にないものだった。

小さい頃すぐ近くにある神社でよく遊んいて、今はどうかわからないが当時は中にも入れて隠れぼの格好の場所だった。といっても三間四方の小さい神社で中は何もなかったから屋根の庇の空間部分によく隠れていた。

正面の奥に小さな祠のようなものがり、小さな扉がついていて、みんなが拝むからどんなにすごいのが入っているのかなと誰もいない時に、そっと小さい扉を開け、和紙にいくつにもつつまれているの開けたら中に薄い真鍮の円盤が入っていた。大人が拝んでいる物がこんなものだったのかとがっかりしたことを今も良く覚えている。私はどちらかというと好奇心の強い子供だったがこれはやり過ぎたなと今は思っている。こんなのを見ていたからキリスト者になる前から神社の前で拝むことはなくなった。

こんな経験から「神がすべてのものを創られた」と聞いた時納得できた。罪の問題も自分の内面も綺麗なものでないことも分かって納得できたが何故その為にイエス様が死んだということが納得できなかった。他に解決の道はないのかとあるわけはないのだが…。

二十代前半で生きる希望を失って死ぬことばかりを考えていた。その当時は自殺する人を羨ましく思い、自分にその勇気のないことを恨んだものである。オートバイ事故を起こしても車は壊れても自分はかすり傷一つ負わない現実を見て「死ねないな、生きる算段をしなければ」と思うようになり、変わらない生きがいを求めて一枚のトラクトから求道の道に…。

そして最後の壁にぶつかり、後にも引けずさりとて前にも勧めず悶々としていた時にこの聖書のことばが目に入ってきた。どう関連づければよいのかわからないが「これだ、主よ単純に信じます」と告白して悶々としていた心の重荷がスーと軽くなったことを今も鮮明に覚えている。納得したわけではなくギブアップした信仰はどうも問題で、色々な経験を通して離れることはないがどこかアウトサイダー的信仰の道を歩んでいるようである。寂しいがどこか落ち着く…。