2017年8月5日土曜日

A・P・ギブス 続き


「ギブスは、福音派の伝統にたつ最良の人間の典型だった。彼は正真正銘の「神の僕」として、独身のまま全生涯を伝道に捧げた人間だった。アメリカ中の小さな教会を縦横に行きかいながら、一週間から二週間、時には一ヶ月もとどまって、神の言葉を語った。
彼は安逸や暇つぶしに陥ることもなく、空理空論を振り回すこともなく、また現代の多くの福音派の説教者たちのように権威や虚飾を求めるということもなかった。その生き方は極めて質素であり、今日のキリスト教会に万延しているような物質主義を今もし目にしたら、怖じ気をふるっただろう。
独学にもかかわらず、彼は聖書をよく理解していた。彼がこの本を愛しているのは誰の目にも明らかだった。そして人々をも聖書を愛するようにすることができた。そして人々が良いキリスト者であることを望んだ。彼がひとたび口を開けば、御言葉が躍動した。
その説教は火のように激しかったが、普段はとても親切で温和な性格の持ち主だった。とりわけ子どもたちに深い愛情を注いていたようだ。そのため、勉強や執筆や説教準備といった忙しいスケジュールの合間にも、彼を探して半開きのドアをのぞきにくる子どもたちのために、話をする時間をとっていたものである。
ギブスは主イエス・キリストへの深い愛を抱き、また神の子たちを愛していた。彼はユニークな性格の持ち主で、はっきりした個性的な人物だった。そして自分自身について驚くほど謙遜だった。今日のテレビ説教者に見られるような、おごり高ぶった様子を見ることは全くなかった。
彼は、町から町へと移動しながら自由に安息の場を得ることができたが、自分自身の家を持つことはなかった。彼が仕えた主イエス・キリストのように、彼もまた枕するところを持たなかった。ぼくの知る限り彼は財産も富も経済的保証も持たなかったが、彼と交わりを持った多くの人々の心の中で、彼はとても重要な位置を占める人物だった。
年老いたA・P・ギブスは、次の町の説教に急ぐ途上、交通事故でこの世を去った。おそらく居眠りが原因で道から飛び出したのだとされている。最期にあたって彼が自分の人生に残したものといえば、主が告げられたに違いない「良い忠実な僕よ、よくやった」という言葉と、彼とかかわった人々からの暖かい感謝だけであった。
ぼくが育った教会では、このA・P・ギブスのように、人々の魂に火を灯し、冷めかけた心を元気づけ、主の御言葉がふたたび体の内に燃えるようになるまで導いてくれる人間を必要としていた。周期的なリヴァイバルがそのキリスト教信仰の中心に置かれていた。ぼくたちは自分たちがそれを必要としていることを知っていた。」

本の内容を知ることはあっても著者の人となりを知るということは少ない。ギブスの人となりを知り、共感を持つことができた。うれしいことである。