2017年9月30日土曜日

いのちを思う


ちょっと大袈裟な題であるが秋野菜を植えて二つのキャベツを枯らしてしまった。新たに植えたが一つはダメになり、もう一つは前回は元気だったが今日収穫間引きに行って見たら枯れていた苗はさらに形を小さくしもうひとつはどこか元気がない。次回に行ったら枯れているかもしれない。住まいより幾分気温が低い、それに山の影になるようなところだから尚のこと良くない。春野菜の時はそれほどでもないが秋野菜の時はたかが数メートルの長さであるが山側と反対側では野菜の育ちが全然違う。だから長い周期の野菜は山側には植えない。畑をやっていて生命の脆さと生命のしたたかさを思う。野菜はものによって違うが概して脆い、チョットした不注意で枯らしてしまう。あるいは芽が出てこない。それに比べて雑草の逞しさには敬服する。この間雑草をこそぎした。枯らすためにそれをひっくり返して置いたが枯れていない青々としている。茶色になった地面に小さな葉を出している雑草を見かける。また根こそぎにしたものを引き上げればたくさんのもやしのように伸び掛けている草を見る。逞しい。光が無ければ光を求めて白くて長い茎を延ばしている。生命を維持するために何かと保護を加えないとダメなものとほっといても育っていく姿を見て、信仰も然りだなぁと思う。守られて立派に育つのもそれはそれなりに立派であるがどこか本物ではない。雑草はこれでもかこれでもかとやってもギブアップしない。そこには深くか広くか色々であるがしっかり根が張っている姿を見る。野菜にはそれが少ない。ある意味で生活に密着した信仰は教会生活にはあまり役立たないかもしれないがこれが必要だと思う。
「…自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)
とイエスさまは言われた。このみことばを実践できなくて苦悩しているキリスト者はどれだけいるだろうか?義のために怒っても罪を犯した者の傍らに立つことができるだろうか。いのちとはこんなところに隠されているような気がする。