2017年10月17日火曜日

弱さ


昔はよく「顔はデカいがここはノミだ」と指で胸を叩いて言っていた。最近はそういうことを言わなくなったが変わったわけではなく言う機会がないだけである。本質的には変わっていないことを時々教えられる。丁度、赤ちゃんがお母さんがそばにいると思って安心して遊んでいて、フッと周りを見わわしてお母さんが居ないことに気がついて不安になり、泣く光景を思い出す。たとえ隣の部屋にいても姿が見えないと不安なのである。鳴き声でお母さんが顔を出すとまた安心して遊びに夢中になる。そんな赤ちゃんと自分がダブる時がある。

そんな時は聖書のことばを思い浮かべても力にならない。不安が先に来るのである。「みことばに頼れない」ここに自分の弱さがあることを教えられる。生きて働くみことばとはならず言葉だけのみことばとなる。こんなとき自分の弱さ、不信仰を教えられる。このパターンは召されるまで続くのだろう。しかし、こんな自分にも
ps 46:10
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。…」(口語訳)と語りかけてくるみことばがある。そして静まって神に語りかけるのである。信仰を含めて欠け過ぎた者であるが
ps:34:17
彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。
と、感謝なことである。
壁に向かって語りかけるように、そしてみことばでさい空しく返って来るようなそんな時にも主は忍耐してこのような者を憐れんでくださっていることを教えられる。そして、トボトボに近い足取りでも一歩二歩と歩を進めてくださる。もうそこにはもう頑張りはない。ただ主の憐れみだけである。