<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><rss xmlns:atom='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss' version='2.0'><channel><atom:id>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777</atom:id><lastBuildDate>Fri, 08 Jan 2010 11:16:43 +0000</lastBuildDate><title>パンくずを拾って</title><description>タイトルを聖書の中にあることばからとった。
「ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずは頂きます。」(マタイ福音書15章27節)　どこか謙虚さを感じる。好きなことばである。</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/</link><managingEditor>noreply@blogger.com (saru)</managingEditor><generator>Blogger</generator><openSearch:totalResults>285</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>25</openSearch:itemsPerPage><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-1731842307660713344</guid><pubDate>Fri, 08 Jan 2010 10:50:00 +0000</pubDate><atom:updated>2010-01-08T20:16:43.849+09:00</atom:updated><title>舞ちゃん</title><description>　先ほど集会のＯ兄から電話があり、昨日の舞ちゃんの手術が無事に終わったとの連絡を頂いた。お腹の中にあるときから顔の大きさと同じくらいの腫瘍が出来ていて、、お母さんは２ヶ月まえから入院して出産に備えた。帝王切開でそれも普通は横に切るのを縦に切ったそうだ。それだけ母子共に大変だった。もしかしたら顔に後遺症が残るかもしれないとのことだったが、それも様子を見ないと分からないとのこと、まずは感謝。なんか彼女は私たちにたくさんのことを教え励ましてくれるような気がする。まさに天使やぁ。お腹の中にあるときに既に戦いの中にあり、この世に生を受けて、８時間もの手術に耐えたのだ。臆病な私には真似ができない。舞ちゃん元気と勇気を頂戴。よろしくね。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-1731842307660713344?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2010/01/blog-post_1700.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-2021112947657185480</guid><pubDate>Fri, 08 Jan 2010 02:20:00 +0000</pubDate><atom:updated>2010-01-08T12:37:58.962+09:00</atom:updated><title>思い出せない</title><description>　昨年の暮れに村上春樹の「１Ｑ８４、book2」を図書館から借りていて、５日から読み始めて、いま読み終えた。途中から緊迫感が有って一気に読んだが読後感はすっきりしない。さらに続くのか終わりにしては何となくすっきりしていない。彼の小説は独特なのか余韻が残らない。或いは難しくて真意を測れないということもあるのかもしれない。５００ページ余りを２日半かかったエネルギーを悔いる。しかしbook3が出たら図書館に予約をするだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それと今book1のストーリーはほとんど思い出せない。私のうちに何かが始っているのか定かではないがと控え目に書いて実は既に始まっているのである。しかし思い出せないのが悪いのか思い出させるものがないのが悪いのか分からない。古希を迎えようとしている身としては余程インパクトがないと残らない。残っても持続性がないのが難点である。生きる為に必要でないものはどんどん忘れていく、だから深刻になることもないか。忘れたらそれはもう必要ないものだと思うようにした方がいい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「満ちたりることはわずかですむ&lt;br /&gt;　ただ一つでも十分～」&lt;br /&gt;というエミリー・ディキンスンの詩がある。&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-2021112947657185480?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2010/01/blog-post_08.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-7400086222900387819</guid><pubDate>Thu, 07 Jan 2010 04:15:00 +0000</pubDate><atom:updated>2010-01-07T14:53:46.454+09:00</atom:updated><title>神長官守矢史料館</title><description>　諏訪大社の上社の神長官である守矢家の資料が展示してある小さな史料館である。諏訪大社といえば御柱が有名であるがここには上社で行われる御頭祭でささげられる動物の剥製が展示してある。その中で鹿が７５頭ささげられたらしいが、ここでは１０数頭の鹿の頭の剥製が展示してある。一頭だけが片耳を裂かれている。７年目で解放される奴隷が主人と家族を愛しているために一生奴隷として仕えることの印としてキリで耳に穴を開ける出エジプト記２１章を思い出す。少し離れているが守屋山、前宮の聖所を思わせる１０間廊、本宮は神殿が奥にある。どこかユダヤ教の息吹を感じるが仏教にしても色々なものが混じって、その面影は極一部、ここも同じかなと思ったが解明できたら面白なと思う。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-7400086222900387819?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2010/01/blog-post_901.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-3495725874435516888</guid><pubDate>Thu, 07 Jan 2010 03:11:00 +0000</pubDate><atom:updated>2010-01-07T13:07:35.310+09:00</atom:updated><title>写真</title><description>　ブログは文章を書くだけしか出来ないのでそれしかやっていなかった。色々できるみたいで写真を入れてみたらこんなに風になった。風景は一面に大きく載せると綺麗だが大きすぎるから少し載せて消そう。脇にも載せてみた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　先日メールをくれた方は趣味として鳥の写真を撮っている。メールの時は必ず一枚とか二枚の写真を添付してくれる。とても素敵な写真だ。あんな写真なら大きくてのせてもいいが簡単なデジカメで撮っているからたいした物は撮れない。彼は北関東から東京の羽村まで週2回聖書の講義を聴きに行っているそうだ。その前向きと熱心さとどこかいい加減な私、そして不器用さがこんな所にも現れるのかなと思った。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　「反省するならサルでも出来る｣こんなコマーシャルかなんかがあったがサルでも出来ることは私はやらない。反省はサルに任せて、さて何を･･･。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-3495725874435516888?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2010/01/blog-post_07.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-4525469012011262016</guid><pubDate>Mon, 04 Jan 2010 16:18:00 +0000</pubDate><atom:updated>2010-01-05T02:20:04.110+09:00</atom:updated><title>今年は</title><description>　三が日も終わり、日は変わって5日になっている。今年初めての書き込みである。いつも思うことだが年末年始の日曜日が何処に来るのかで大分変わって感じるように思う。今回は3日が日曜で三が日は終わりで珍しく区切りがいい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　区切りがいいといえば今年は古希であり、誕生日が日曜日、4,5年か7,8年の割で誕生日が日曜日になる。信仰を持ったときの年がやはり誕生日が日曜日だった。それでお願いして誕生日に洗礼を受けさせてもらった。これだと何時洗礼を受けたかが忘れない。しかし誕生日やクリスマスを祝ったりしないので、誕生日前後は覚えているが当日になると忘れていることが多い。茗荷の名前の由来を何かで読んだことがある。全く同じような人間であるから丁度いい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　冬は東京に比べたらはるかに厳しい信州の生活を経験して、フッと思う。温暖な地での神認識と厳しい気候での神認識は違うのではないだろうかと。それと四季がはっきりしている日本にいると冬の厳しさを通して、人間に妥協しない神を見る。春には食物が芽を出し花を咲かせるので命を思い。暑い夏は神の裁きを思う。そして実り秋である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「神は愛である｣とヨハネの手紙に書かれているが愛はいのちの生み出し、いのちは希望を生み出してくれる。このことを形にしたのがイエスさまの受肉と十字架と復活である。よく年が明けてから礼拝時にイエス様の誕生の賛美歌を歌う。3日にも礼拝賛美歌98番を賛美した。今年一年はどのような年になるのか楽しみであり、また逆の恐れもないわけではない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-4525469012011262016?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2010/01/blog-post.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-7199415622219731860</guid><pubDate>Thu, 31 Dec 2009 11:32:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-12-31T22:32:32.069+09:00</atom:updated><title>大晦日</title><description>　「味噌こしの底にたまりし大晦日、越すに越されず越されずに越す」、大晦日になると何時もこの言葉を思い出す。若いときに寄席で聞いたのかラジオで聞いたのか忘れてしまったが現代ではこんな言葉はどのような意味なのか分からないだろうな。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　越すに越されないことはなかったが今日でこの一年は終わる。振り返ってみれば、色々というほどのものはなかったがそれでもあった。一昨年の7月に引越して来て、あっという間に年を越して、今年は一年をフルで過ごした。寒い冬を経験して、最初に思ったのはここではホームレスは住めないなと思ったことだ。墨田川河畔、上野公園、代々木公園、新宿中央公園、知っているのはこれ位だが大勢の人がいた。それと日差しのある時の暖かさを知るとこれこそ恵であることを教えられる。この一つ教えられただけでも引っ越した価値があるように思える。といっても4月にならないと暖かくならない気候はやっぱり苦手である。それと坐骨神経痛になって、痛さと治りの遅さと多分完治することがないであろう経験も貴重であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　気ままに書いているブログに読んでいる方がいることを知って驚いたこともある。人に読んでもらうためではなく、自分の考えていることを文章にして整理したいという思いで書いていた。といっても纏まるわけでもないが。あらゆる意味でのマイノリティーとしての問いかけでもある。聖書や信仰に関しては、 「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」&lt;a href="http://www.tuins.ac.jp/~takao/cgi-bin/biblesearch.cgi?key=FZEOs4bodm7gQ&amp;amp;word=job:38:+2&amp;amp;dspnum=11&amp;amp;ver=2&amp;amp;pos=0+10"&gt;job:38: 2&lt;/a&gt; ヨブのような知識は勿論ないわけだが。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それと不安と恐れが何処かで頭をもたげてきた。50代後半にもこんな経験をした。原因が分からなかったが今はよく分かっている。信仰の問いかけで、これは来年に答えが与えられるか自ら出さないといけないかどちらかであろう。来年は最後の60代である。７０代へのステップになるような気がする。そのためのプレプレなのかもしれない。&lt;br /&gt;色々なことがあったが感謝の一年であり、来る一年は色々な意味でチャレンジの年であるような気がする。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今年も主の赦しを経験させられた一年だった。感謝。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-7199415622219731860?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2009/12/blog-post_31.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-7223742111381553007</guid><pubDate>Wed, 30 Dec 2009 11:04:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-12-30T21:35:33.001+09:00</atom:updated><title>200kmを</title><description>　先週の25日にお天気が良かったので自転車で出掛けて、図書館から釜口水門に出て、湊周りで諏訪湖を一周する。その後で温泉に浸かって帰ってきたといってもそこから川沿えに緩やかな坂を3キロほど走るのである&lt;span&gt;&lt;/span&gt;。9月に自転車を購入して、3キロ、5キロと積み重ね、早々に諏訪湖一周をして、この間の一周で190キロあまりになっていていた。昨日は7キロ、今日は4キロから乗ってついに200キロを超えた。別に意識していなかったが暖かかった所為もあり、諏訪湖一周も出来たからクリアー出来た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自転車に乗っているとよく周りが見える。それに昔の道なのだろうか狭く、一般道を斜めに横切るような道が結構ある。それと古く大きな家もある。農家というより、養蚕をやっていたのかなと思わされる。義母が親しくしていた家も今も古い建物がある。昔は5,6階建ての繭倉があったそうだ。宿場町として栄えた下諏訪と養蚕で栄えた岡谷では少し趣が違うような気がする。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自動車では見えないものが自転車や歩きだとよく見えてくるものがある。それと同じように聖書理解や信仰生活もスタイルを変えると今までと違ったものが見え、意外性を感じる。初期のクリスチャンはユダヤ人、「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、」 acts 2:46 。以前と変わらず喜んで宮もうでをしていた。今ならさしずめ偶像崇拝の槍玉に上がるだろう。パウロの登場から今日、様変わりは大きいと思う。聖書に帰るなら初期のクリスチャンでと思うが彼らはユダヤ教徒、我々はコリントの街のようなところに住んでいるから無理か。でもあんな自由で喜んでいる姿はうらやましい。気が向いたときにパン裂きをし、姉妹が祈って、教会の人たちはプログラムのない礼拝に驚いているそうだがその諸集会の信者も驚くやり方をやってみたいものである。と書いているのは自分にそんなものがないからかもしれない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-7223742111381553007?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2009/12/200km.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-2271464925712728666</guid><pubDate>Sat, 26 Dec 2009 11:37:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-12-27T00:42:04.007+09:00</atom:updated><title>クリスマス</title><description>　昨日はクリスマスだった。クリスマスよりイブのほうが賑やかで、どんなことをやるのかわからないが静にクリスマスを覚えるのはカトリックのミサかもしれない。信者でない時は勿論、今でも余り関心を持たない。それは、日本人特有の精神論かもしれないがなぜか浮ついているようなのでそれが嫌なのだ。&lt;br /&gt;　馬小屋で生まれたイエス像をどのように捉えるかで大分違うのではないだろうか。宿屋の片隅でなく、馬小屋は明らかに人々がイエス様を拒否している。福音書の他の箇所でも見ることが出来るが、この根源的な罪がいかに深いものであるか私には分からない。だから嫌なのである。これが分からないと神の愛はさらに分からないのではないだろうか。必然的に「ご利益的な信仰」なるような気がする。&lt;br /&gt;　とイラソーに書いたが年賀状を書くのに四苦八苦していて静かに主の誕生を覚える余裕はなかったというのが本音である。そして昨日、郵便局に持って行くことが出来てホッとしているのが現実、オ・ハ・ズ・カ・シ・イ。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-2271464925712728666?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2009/12/blog-post_26.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-956412935789287587</guid><pubDate>Wed, 23 Dec 2009 14:56:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-12-27T01:47:57.306+09:00</atom:updated><title>慣れ？</title><description>　雪国育ちだから、子供のころは寒く、冷たくてもそれ程苦にならなかった。むしろ雪で遊べる楽しさがあったように思う。こちらに来て、スキー場が近くにあるのにいいなぁと来る前は思ったが、こちらに来たらそんな気はほとんど起きてこなかった。この歳になると雪が降っても犬のように庭かけ周る元気はなく、猫のようにコタツで丸くなっているのがすこぶるいい気分。　そんなわけで今は寒さは苦手で、寒いこと考えると身が細る思いがする。　今年は暖冬のようでホッとしている。事実12月中ごろまでは去年より暖かかった。その後に雪が降ったり、気温もマイナスになり、結露したのが凍るようになった。これから3月いっぱい寒いのかなと思うとうんざり。しかし最初、室内の温度が10度を割ると寒さを感じたのが段々下がって4～5度でもそれ程寒いという感覚はなくなった。それにこのところお天気も良く、一時ほどでもない所為もあるのかもしれない。なれるってこんなんかなと思う？それでも寒く、そして日の出は遅く、日の入りは早いこの時期、お天気が悪かったらさらに気分的にも滅入ってしまう。　そんなこんなで今年も諏訪地区の気温の最低、最高気温を記録している。といっても気象庁のインターネットから諏訪地方のを記録しているのだが、だからどうなるわけでもないけど、今年は暖かいとか寒いとか、あと3ヶ月、2ヶ月、1ヶ月と忍耐と望みを抱こうと思っている。それと天文台からは日の出日の入りをコピーしている。12月3日から9日まで日の入りが一番早く、来月の2日から11日までが日の出が遅い。そこから3～4日に一分づつ延びて、それが一日1分となり、後は日が延びるのみ気分的にいい。そんな馬鹿げたことを考え、やっている。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-956412935789287587?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2009/12/blog-post_23.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-8380723025363239373</guid><pubDate>Thu, 17 Dec 2009 11:36:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-12-27T01:52:00.346+09:00</atom:updated><title>フッと出てくるもの</title><description>　昨日は寒くなかったので買い物や図書館に自転車で出掛け、夜は諏訪に忘年会に行って疲れたのか、12時過ぎ早々に休み、朝起きたのは8時だった。その所為か今日は何もする気がなくて一日が過ぎてしまった。それ程体が疲れたということではないが何んとなく気力が出ない。買った本もあったのにそれを読むでもなし、もしかしたら忘年会のちょっとしたことが気になったのかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分の中に屈折したものがあって、なんかの拍子に出てきて、それで何となく滅入る。今回はそれ程でもないのかもしれないし、東京と信州の感性の違いか、はたまた我が負の部分が出たのか分からない。なんかそれが尾を引いているようだ。そんなことを何となく気にするというのも問題なのかもしれない。明日になればそれもなくなるのだろう。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-8380723025363239373?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2009/12/blog-post_17.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-6307791653678811582</guid><pubDate>Sat, 12 Dec 2009 14:58:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-12-13T01:22:40.157+09:00</atom:updated><title>ある本を読み終えて</title><description>　先日、一冊の本を読み、考えさせられた。戦時下で治安維持法違反で刑務所に入った牧師の物語である。まさに隣町の教会の牧師（当時）の話だった。昔の写真に中田重冶が写っているそうだからホーリネス系？詳しくは知らないが戦中に多くの牧師が逮捕され、多くの牧師が獄中で亡くなったと聞いている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この本を読み終えた時、｢青銅の基督｣の本を思い出した。芸術と信仰、これが変に絡んで信仰もない一人の芸術家が基督者と誤解されて殺される。殺された彼を真に理解していたのは遊女だったというのも面白い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　思っていることを書くと･･･。何時の時代も善意の人の集まりがあればそれを逆手にとって利用する為政者の姿がある。過ぎ去ってみれば「何で、」と問いかけても答えが出ないようなことをその時は疑うこともなくやってしまう。ロマ書7章ではないが悪であることを知りながらそれしか出来ない人間の姿がそこにあるのだろうかなぁ。やるときは綺麗なオブラートに包んで本質が見えないようにしてやる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今もこのようなものがあるような気がする。世の中は勿論のこと信仰の世界でもあるのではないだろうか。福音を語りながらもそこにあるのは自己実現が目的であったりして、その点イエス様はやることも言うこともストレートだ。だから殺された。変な読後感になってしまったが。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-6307791653678811582?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2009/12/blog-post_12.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-6481614688569524772</guid><pubDate>Fri, 11 Dec 2009 10:17:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-12-11T20:22:59.310+09:00</atom:updated><title>本を読んで</title><description>　最近でもないが本を読むのが遅くなり、尚且つ残らなくなった。元々斜め読みタイプで読解力はすこぶる悪い。それでも時間がかかっても残ればいいのだがそれも難しい。それでもまぁ少しは考えさせられたり、教えられたりしているからそれを「良し」としなければならないだろう。そんな中で今日一冊の本を読み終えた。私の原点は「弱さと知識の無さ」であるべきことを確認させられた。充分ではないが教えられて感謝している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。」&lt;a href="http://www.tuins.ac.jp/~takao/cgi-bin/biblesearch.cgi?key=FZEOs4bodm7gQ&amp;amp;word=job:42:+3&amp;amp;dspnum=11&amp;amp;ver=2&amp;amp;pos=0+10"&gt;job:42: 3&lt;/a&gt; 　ヨブの謙遜を見るが私にとってはことばそのものである。そして「私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」 &lt;a href="http://www.tuins.ac.jp/~takao/cgi-bin/biblesearch.cgi?key=FZEOs4bodm7gQ&amp;amp;word=job:42:+6&amp;amp;dspnum=11&amp;amp;ver=2&amp;amp;pos=40+8"&gt;job:42: 6&lt;/a&gt; 　とヨブのように言えないのが･･･。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-6481614688569524772?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2009/12/blog-post_11.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-3311023951242281366</guid><pubDate>Wed, 09 Dec 2009 05:38:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-12-09T16:47:39.120+09:00</atom:updated><title>ふっと考えたこと</title><description>　よくアクセスしているブログに集会の建物に関することで、ある方の手紙を紹介されていた。集会場の色々な形態や事情があることを少し分かった。長野県にある集会も幾つも知っているわけではないが自前あり、定期的に長期間に亘って借りている所、わが集会のように公共の建物を2,3箇所確保して借りている所と色々ある。他もこの三つに準じているのではないかと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　10数年まえにオーム真理教が問題になって、宗教法人法の改正などが話題になっていた頃に当時弁護士で元最高裁長官の藤林益三さんが日経新聞にコラムを書いていた。宗教法人法の改正に着いて専門家の立場から書いていている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　最後に「かく言う私は内村鑑三の流れをくむいわゆる無教会主義キリスト者である。」という書き出しで「私たちには宗教法人法は無縁である。金もなければ施設も組織もないからである。日曜日には借り物の会場で同信の友が相寄り聖書を読み共に祈り、先輩が話し、後輩も語る。会場費としてわずかな金を入り口のかごに投じ、これで会場費や講壇の花代をまかなう。皆手弁当である。先輩が死去すれば後輩が我流で葬儀を執り行い、後輩が結婚することになると先輩がその司式をする。&lt;br /&gt;　私は昭和9年以来88歳の今日に至るまでに数十人の先輩を天に送り、数十組の結婚を司った。今も月一回は約一時間立って話をしている。こういうやり方もあるのである。だれも文句を言わず、不満があれば去ればよい。風通しはまことに良い。しかし教会のような施設もなく、専従者もいないから、宣教には不都合で、これが最大の悩みである。」と書いていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この最大の悩みを教会は解決しようとして努力しているのかなと思っている。しかし無教会は教会とは別の方法でこの世に対してアプローチしているのではないだろうかと思うときがある。教会はどちらかというと世の中のことには余り関心を示さないというよりそれが信仰的と捉えている。無教会は世に対して時には強烈なアプローチをする。そして批判するだけではなくその中に入っていって変えようとしている姿勢が見える。聖書の使信をどう伝えるか、その捉え方で集会場というものの位置づけが変わってくるのではないだろうか。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　無教会の集会はそれ程知っているわけではないが会場を借りて集会を持っている集まりが多いのではないだろうか。今はどうか分からないが東京にある一つの集会は自前の集会場を持ち、8月に修養会を持って、そこでバプテスマと聖餐をやっているとそこに集う方から聞いたことがある。そこは宗教法人に入っているとも言っていた。私たちの集まりは「無教会でも右です。｣と腰に手ぬぐいを引っ掛けている姿で笑って話されていたのが印象に残る。集会と同じ名前の書店を持ち、出版もされている方である。今は息子さんがあとを継いでいるようだが。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今はそれでも内村鑑三がこう言ったとか言われるが昔は無教会は「師と弟子」、「聖書の勉強だけ」と一刀両断だった。中を少し見ると確かに言われることも事実の所もあるがそれだけでなく伝道に熱心な集まりもある。個人の力の大きさかもしれないが学校を創ったりしているし、その広さは諸集会の比ではないと思っている。教会の自を是とし、他を否とする否定的発想はわが性格とマッチしてとても居心地がいいがそれが正しいかどうかは別であり、むしろ逆なのだろうと思った方が正解のような気がする。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-3311023951242281366?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2009/12/blog-post_09.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-2315022813771774448</guid><pubDate>Sun, 06 Dec 2009 14:49:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-12-07T00:10:00.157+09:00</atom:updated><title>伝える</title><description>　いつも話終えて思うことは伝えると言うことの難しさを覚える。と書けば格好いいが様は話が下手だということだ。それと自分ではよく分かっていると思っていることが実はよく分かっていないのではないかという思いもある。自分が分かっていても人に伝えるということはさらによく分かっていないと伝えられないということがある。また「裁きを語って救いを語る。」と言うことに上沼さんは異を唱えていたが同感しているところがあるが集会はそれを強調しているから難しい。それと年末に繁華街でスピーカーで「滅びるからイエスを信じて救われよ｣と流し、問いかけても何も答えてくれないあのグループのことがすぐ思い出してしまう。集会の流れは流れとして、今生きているこの時にイエス様と共に歩む素晴らしさを自ら経験し伝えたいものである。そこに信仰、信頼が大切であることを知っていてもそれが･･･。ここに来て色々問われるがそのことに答えていけたらと思う。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-2315022813771774448?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2009/12/blog-post_06.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-7656431596216288743</guid><pubDate>Sat, 05 Dec 2009 14:40:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-12-05T23:42:20.383+09:00</atom:updated><title></title><description>&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-7656431596216288743?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2009/12/blog-post_05.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-1155136888252936280</guid><pubDate>Tue, 01 Dec 2009 11:31:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-12-01T20:47:08.643+09:00</atom:updated><title>終末論</title><description>　以前、もう20年前かもっと前かな関西のほうで｢すぐ主が来る｣という終末論が盛んだったらしい。それで自分の人生をそれに合わせて、生活設計していたら主は来なかった。結果として深く傷ついた人たちがいたことを何かで聞いた。&lt;br /&gt;　最近またそのようなことが起きているのではないだろうかと思うことがある。勿論事実であるかないかはわからない。ただ何事も複眼的な目が必要ではないだろうかと思う。「あなたも行って同じようにしなさい。」とイエス様は言われた。神の国はこのようにして地上に出来るのではないかと思っている。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-1155136888252936280?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2009/12/blog-post.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-5844749343783525964</guid><pubDate>Sat, 28 Nov 2009 06:06:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-12-01T20:24:56.019+09:00</atom:updated><title>日本語</title><description>　以前いた集会に神学大学で勉強された兄弟がいて、学園紛争の世代だからちゃんと卒業出来たのか定かではない。北森嘉蔵が先生だったそうで｢聖書百話」の本は分かりやすくて良かったと言ったら、何年も使ったような同じテキストで講義をして話はつまらなかったと一刀両断。良く知らないが日基等の牧師の名前を言って、一緒に勉強した仲だといっていた。マンションの一部屋は壁一面本だらけ、それも難しくて高い本ばかり、TVなしで時間があったら本を読むといっていた。ギリシャ語もへブル語も堪能で、勧められたが語学は苦手でことわった。若い人の中に興味を持っていた人たちがいたがどうなっただろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　どちらかというと聖書は学問的に捉えることが主体で福音は違う次元のようなことを言っていたように記憶している。冗談に「ここは逐語霊感説をとっているところだからあなたはここにいるのは可笑しいんじゃない｣といって冷やかしていた。彼は「私はかまわないのだ｣といって笑っていた。集会の鷹揚さが気に入っているかのようだった。俗にいう神学を勉強していたといっていいのだろう。ここで神学論争をする積もりもないしあそこで出来る基盤もないことを彼は良く知っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　神学とは彼が勉強してきたようなことを言うのではないだろうかと自分では思っている。しかし聖書を極めようとするときに（勿論極められないが）そこにはすでに神学といえるものがあるのではないかなと思う。このような集まりでは「神学」という言葉はアレルギーになっているように思う。神学も信仰よりも、より学問的なものに重点を置いているものから深く信仰に根ざしたものとその幅は大きいのではないだろうか。「神学」という言葉でひとくくりにしてほしくない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「宗教｣という言葉もそうだし「キリスト教｣という言葉も然りである。ただ言葉で判断するのではなく、相手が言っている話の前後を踏まえて判断してほしいと思う。神学を批判するときに言っていることも然りだが「人」の資質のようなものが問題になっていないだろうかと思うことがある。どちらにしても細かいし、日本語の言葉のあいまいさもこうなるのだろう。それと単純明快に言えば判りやすいから断言してしまうから聞く側にも問題があろう。わかりやすいがホント？と思うときも無きにしも非ずだからなぁ。でもそんな単純なものでもないのだろうとも思うが。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-5844749343783525964?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2009/11/blog-post_28.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-5813512413972870262</guid><pubDate>Sun, 22 Nov 2009 23:56:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-11-23T21:45:50.495+09:00</atom:updated><title>勤労感謝の日</title><description>　農家に育ち、きつい肉体労働を見てきていると勤労という言葉にも重みがあった。マネーゲームで億にイク桁もつくような儲けをしている人たちやアメリカの大企業のトップの給料を見ると勤労という言葉からは程遠いような気がする。そういう自分も今は年金生活者であるからある意味で勤労とは程遠い存在である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　祭日、祝日もそれ自体形骸化しているように思う。市や区などでエベントがあるくらいでそれが生活の中に入っては来てない。自分が市や区の活動に積極的にかかわろうとしていないからそう感じるのかな。ここは町内会というのがなくてそれに代わる「区」というのがある。区民とか言われると東京の23区を連想して戸惑うが区民会館は舞台や貸室があって立派な建物だ。区は町内会より大きい組織のようだから面白い形態である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　キリスト教主義の高校だと労作という授業がある。三重県にある愛農高校は全寮制で食事も学生でやっていると聞いている。農業高校だから田畑から牧畜に養鶏もやっているからまさに勤労そのものである。島根県にある愛真高校は普通高校であるが同じようなことをやっている。そしてそれを大切にしている。今はどうかわからないが新潟市郊外にある敬和学園は初代の太田校長は労作を大切にしていたように思う。クリスチャンの価値観はどうなのだろう。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-5813512413972870262?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2009/11/blog-post_23.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-3945897796987296654</guid><pubDate>Sat, 21 Nov 2009 04:53:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-11-23T08:56:16.514+09:00</atom:updated><title>看護大学校で</title><description>　先日、カリキュラムの一貫として、長野県の看護大学校の介護福祉科の生徒との交流会があった。若者に望むこと、年寄りはどう介護してほしいか。年寄りと若者の立場からの問いかけがあってそれなりに良かったが少しきれいごとに終わったのかなと思っている。でもこんなものだろう。人によっては孫に近い人たちと交流すること自体すごいと思う。これから介護される側とこれから介護する側というコントラストが面白かった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　午後は理学療法士の先生から介護器具の講義があり、説明を聞きながらヘルパーの講習を受けていたときと少し変わってきたことを感じる。以前設備を見ていた介護施設の若い者職員がみんな腰を痛めているのを見て大変だなぁと思っていた。しょうがないのかなと思っていたが色々な器具を工夫して使えばそれらを防げることを説明してくれた。ただ現場は金のかかることだからそうなるまで時間がかかりそうだ。自分が世話になる頃はどうなっているだろうか人間の尊厳なんて言われるがどんな扱いを受けれるのかな。金と人材があってもゆとりがなければ虐待的なことは避けられないような気もする。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-3945897796987296654?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2009/11/blog-post_21.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-7246262480530715497</guid><pubDate>Thu, 19 Nov 2009 12:20:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-11-21T13:50:34.097+09:00</atom:updated><title>諏訪盆地は寒い</title><description>　16，17日と実践塾の親睦旅行に富山と金沢に行って感じたことは「諏訪は寒い」ということだった。冬の荒れた日本海を想像し、単純に北は寒いと思っていたから富山、金沢は暖かい。富山と金沢をいくつか周ったがセーター着ているだけで充分。17日は雨で少し寒く感じたが上着を着ていれば充分だった。しかし誰かが調べて諏訪地区は雪とみぞれとのこと思わず「エー」と言ってしまった。たしかに南下して最後のコースの白川郷の一角である五箇山の合掌造りの菅沼集落は寒かったしさらに南下して白川郷あたりの山は白くなっていた。あらためて緯度ではなく高さであることを確認する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　旅行に諏訪盆地は寒いと最初の印象を書くのもなんだなぁと思いながら書いてしまった。ということは団体旅行はあまり好きではないということだ。人に合わせるのが苦手というか努力することがシンドイのである。それでも結構それなりにやれたので20年の歳月は無駄ではなかったのかなと変なところで感心している。それでも飲まない、歌わない、踊らないというか出来ない。しかし好きな人は好きでやっているから丁度いいのかなと思った。寒いところの所為か飲めない人もいたがノンベイが多い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　初めての富山であり、金沢だったが観光地で人で賑わっているだけあって、各々に風情があってよかった。しかし歳をとると団体よりも家内とか一人で散策したほうがいいなぁと思った。車で動くことがほとんどで単独行動だからそれになれると窮屈な感じがする。先の長くない人間はこんなことで我慢することもないだろう。気心のあった友人とというのもないしこれは寂しいし少し問題ありか。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-7246262480530715497?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2009/11/blog-post_19.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-4489449565368473826</guid><pubDate>Sun, 15 Nov 2009 13:42:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-11-15T23:51:57.350+09:00</atom:updated><title>聖書通読を終えて</title><description>　今日マラキ書の残りを読んで今年の聖書通読が終わった。正直なところ字面だけを追ったり、端折ったりと内容的には褒められるものではないが取りあえず終わった。直接ではないがそんな読み方に何の意味があるのかと言われたこともあった。そんなの判るかと内心思った。でもこれからは聖書の読み方を考え直してみるいい機会であるかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　いま、デボーションでテモテを読んでいて、1Tim6:15－16にこのように書いてある。&lt;br /&gt;「…神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」&lt;br /&gt;　賛歌として何も注釈をつける必要のない個所である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そして通読最後の小預言書を読んでいて、特に好きなホセア書の中にこのような言葉がある。&lt;br /&gt;「わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせてきた。」hos 11: 4 &lt;br /&gt;　反逆の民イスラエルに対して怒りながら、放蕩息子に対する親のような苦悩が書かれている。テモテ書からは人間が入る余地はないがホセア書は実感として味わうことが出来る。親不孝をしてきた者であり、主に対しても真実でない者であるから、なんとも言えない慰めの言葉である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　歌を忘れたカナリヤでも歌を思い出そうとしている。私も主に対して応答しよう。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-4489449565368473826?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2009/11/blog-post_15.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-6208686807733285258</guid><pubDate>Fri, 13 Nov 2009 14:23:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-11-15T01:08:26.066+09:00</atom:updated><title>エゼキエルの神殿</title><description>　聖書通読でエゼキエル書を読んでいる。イザヤ書、エレミヤ書と読んでいると各々の個性が見えて面白い。言葉としてはイザヤ書が好きだが人間的にはエレミヤに共感を覚える。同じ大預言書といわれながらも置かれている状況とその人なりによってこうも違うものかと思うと面白い。そして読み手の側に与える共感は人によって違うのだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　エゼキエル書は前の二書と違ったものがあるので面白い。３７章や４３章を読むとワクワクする。しかし４０章からの神殿に関しては読んだだけでは判らない。建築家は図面を見て、建物をイメージできるといわれるが数字が羅列されているこの箇所を読んでいて、実際の建物などはイメージできない。元々こういうのに弱かったが年と共にさらに駄目になっているのを実感する。インターネットで見つけて、あぁこういうことかと少し理解ができた。それだけでも感謝かもしれない。よく言われる「今朝何を食べたかを忘れても今朝食べたことを忘れることは問題だと」、そこまで行っていないからそれはそれでいいのだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　間もなく聖書通読は終わるが今回は読みづらさを感じた。設備管理の仕事をしていた時は半地下のほとんど人が来ない所でひたすら聖書を読み、３ヶ月で読み終えたのを懐かしく思う。仕事に行っているのか聖書を読みに行っているのか判らないないなぁと思った時でもある。１０年も前の話だが今とは大分趣が違う。これからはさらに加速していくことだろう。難しいことは分からんから信じたはかりの時のイエス様に感動したようなことがそこから見えるかもしれない。違った形で聖書が面白くなりそうだとなるとよいのだが。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-6208686807733285258?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2009/11/blog-post_13.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-1069048522980273008</guid><pubDate>Sat, 07 Nov 2009 12:23:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-11-07T22:38:44.508+09:00</atom:updated><title>読み終えて</title><description>　「人生を導く5つの目的」をノートを取りながら8月22日から読み始めて10月30日に読み終えた。40章の40日、一日一章のつもりが大分延びてしまった。それよりどんどん前にやっていたことが忘れていく、悲しんでもしょうがないので淡々とそれを受け止めている。目次のタイトルを見て、そしてノートに何を書いたかを見ては思い返している。元々物覚えが悪い上に歳が加わっているからどうしょうもない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　内容は6つに分かれていて、5つの目的が書かれている。&lt;br /&gt;私は何のために生きているのか。&lt;br /&gt;第１の目的　あなたは神の喜びのために造られた。&lt;br /&gt;第２の目的　あなたは神の家族となるために造られた。&lt;br /&gt;第３の目的　あなたはキリストのようになるために造られた。&lt;br /&gt;第４の目的　あなたは神に仕えるために造られた。&lt;br /&gt;第５の目的　あなたは使命のために造られた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　個々の目的にも項目別に書いてあるから判りやすいし難しくない。これは一人でやるのではなく少人数のグループでやるようになっているようだ。話し合いながらすると効率が上がると思う。今度誰かとやるときのたたき台には良かったかもしれない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-1069048522980273008?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2009/11/blog-post_07.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-4796985090143191310</guid><pubDate>Thu, 05 Nov 2009 10:44:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-11-05T22:53:45.354+09:00</atom:updated><title>処する術</title><description>　白川勝彦さんは『永田町徒然草」というブログを書いている。その中で「政権内部や民主党から伝わってくるニュースには、“それは良いぞ!!”という思われることが少ない。それより“あまりぞっとしないなぁー”と思われることが多いからだ。』と書いている。…それは、『彼らが“権力に処する術”を知らないからではないのか。　このヒントは、「“富に処する術”にある。この言葉もあまり聞き慣れないと思うが、私の造語ではない。かつて宮沢喜一氏が使った言葉である。宮沢氏は「私たち日本人は貧しさに耐え、これを見事に克服した。そして世界が驚嘆するような豊かな国となった。私たち日本人は、貧しさにどう対処したら良いかは知っている。しかし、自分たちが手にしている富にどう対処したら良いのか、必ずしも十分に知らないのではないか」という文脈の中で“富に処する術”という言葉を使ったのである。』と説明している。『それと民主党は長い間確かに“政権交代”を訴えてきた。そして念願の政権を手にした。政権を獲得した場合どういうことを行いたいか、それなりに勉強してきたようである。しかし、自公“合体”政権の権力について批判することと、実際に自分たちの権力をどう行使するのかは別の問題である。権力者は権力をどう行使するかも問われるが、権力を行使しないことにも責任を問われるのだ。要するに政権党はあらゆることに責任を問われるのである。政権党には、その覚悟が必要なのだ。』とも書いている。分かりやすい説明である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分のこととして振り返ってみるとかつていた集会は大勢信者がいた。週報を９０枚刷っても無くなると聞いているから割り引いても７,８０人の信者はいるのだろう。特別な責任を負わなければ集うだけでよい。そうすると諸々の要素はあるが集会を客観的に見てしまいがちになり、当然批判的な視点で見ることもある。引越す頃は、これは責任者に委ねられたもので私がどうこう言うべきものではないと思えるようになった。そうなるまでは大分時間がかかったように思う。責任を負わないと部分的なものしか見えないし、欠けている面が見えるということもある。事実、そういう話を色々「聞く」ということも多かった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　一つの群れを委ねられているということは、責任者の霊性と能力が問われる。問われても決断していかなければならない。決断したとしても具体的には難しい。論評は出来ないが、現にそれによってバプテスマを前に集会を去った方がおられる。そこには信仰の確信のようなものがあるのではないだろうかと思っている。諸集会にはオープンとクローズという水と油に等しいくらいに融和のできないものがあるように思う。そのオープンも集会にこだわっているのと教会からも学ぼうとしているのとあるように思える。そんな色々な集会があるからその人を受け入れてくれる集会があるだろうと思っている。&lt;br /&gt;　大分昔の話だが、すでに召されたＮ集会のＳ兄は「以前はここでパン裂きが出来たが今は･･･」とある大会のことを個人的に話してくれたことを思い出す。それだけ昔は集会は一つであったのだろう。それが年と共に多様化して、今はさらにとの思いがある。それはまた「一つになる」ということをさらに難しくしているように思う。個々の集会が独立したものとして尊重されていればそれはそれで素晴らしいと思うがそう単純ではないようだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　話を戻して、１０人に満たない小さな集会ではあるが白川さんが指摘する民主党の現実を今自分が経験しているのかなと思っている。スタンドで観戦していた者がグランドに降りてプレーするようなものである。色々な思いが去来するが何処でもいつでも教えられた所がスタートと思っているのでそれはそれでいいかなと思っている。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-4796985090143191310?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2009/11/blog-post_05.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item><item><guid isPermaLink='false'>tag:blogger.com,1999:blog-4545402617235303777.post-3221046462345546343</guid><pubDate>Wed, 04 Nov 2009 11:28:00 +0000</pubDate><atom:updated>2009-11-05T00:33:18.508+09:00</atom:updated><title>その後</title><description>　学び会の後、兄姉と少し交わって、豊科にある長野県立こども病院に向かう。そこには集会のＯ兄の奥さんが入院している。Ｍ集会のＨ兄姉はご夫婦で小児科の先生をしているという。そしてＭ兄はこども病院の小児科の先生であることを知る。大きい病院だから担当が違うとコミュニケーションはないみたいだ。でも何かあったら言って下さいと言われ、その旨彼女に伝える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　胎児の首の辺りに腫瘍が出来ている。１２月末の出産予定だが帝王切開なか陣痛が起きるとアウトなので、早々に入院して様子を見るとのことだった。現におなかが張っていて、それを抑えるために常時腕から薬を入れていている。その格好でシャワーを浴びたりするそうだ。でも家にいるよりはるかに安全、安心である。子供さんのことが心配だったそうだが毎日電話で話をしていて、それ程心配ではないようだ。感謝である。保育園の年長組、大分聞き分けて来ているのだろう。精神的に不安定のような様子はないように見える。彼らを見ているとぎりぎりのところで守られているという感じがする。胎児がこれからどのようになるのか分からないがこれからも守られていくことを願う。彼女の救いと胎児の健康をこれからも祈っていこう。明るい彼女の顔を見て安心しながら。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/4545402617235303777-3221046462345546343?l=pankuzu.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</description><link>http://pankuzu.blogspot.com/2009/11/blog-post_04.html</link><author>noreply@blogger.com (saru)</author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></item></channel></rss>