2017年11月30日木曜日

見えるということ


john 9:41


イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは目が見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」

ヨハネの福音書9章のことを書きながら最後の節を書き忘れてしまった。

高橋三郎著「ヨハネ伝講義」にはこの箇所をこように書いておられる。
「君達が本当に自分の盲目に気づいていたら、最後まで光に反抗するような狂いじみた倒錯には陥らなかったであろう。生まれながらの人はすべて、神の真理に対しては盲である。この生まれながらの盲人は、いわばこれを象徴的に示す存在であった。だが、自分の盲目を知って、開眼を祈り求める者には、救いの道が開かれているのだ。しかし君達は、本当は盲なのに、なおも『見える』と言い張る。この思い上がった自信の故に、真の光に至る道を、君達は自ら拒否しているのである。だから、罪はいつまでも君たちにこびりついて離れないだろう。この意志的犯行が、つまり罪の本体なのだ。そしてこれを支え、助長するものは、自分の正しさを主張する心(自己を義とする心)である。――この厳粛な宣言をもって、九章の終わりを告げた。」とある。

5節に「わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」と言われた。イエス様を否定しているということは光を否定しているということでもあるから彼らにとって神は見えないということであろう。まさに「見える」というところに罪がある。今日でもこのことを見ることができる。神を全く否定する人だけでなく、キリスト者も知っていると言いながら実はほとんど知っていないということがあるのではないだろうか。ここに謙虚に生きる姿勢が求められる。私も然りである。