2009年2月14日土曜日

福音

教会の福音理解を刑罰代受説であると言われる方がいる。確かに神の裁きをイエスさまが代わりに受けてくださったということは、そのように捉えられてもおかしくはない。同じことでも、十字架の死が「わたしの罪のたために」にと「わたしの罪がイエスさまを十字架に」では大分ニューアンスが違うような気がする。そこには罪赦された者の資質も違ってくるように思う。前者はどこかご利益的になりやすいし、後者は罪責感が強く残っているような気がする。ルカの18章に登場するパリサイ人と取税人の祈りが象徴的に示している。教会の歴史が異端といわれた人たちに対する態度と行為は、神の主権を握った者の恐ろしさを如実に示している。教義の議論はまさにこのところにあるのではないだろうか。イエスさまが「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」(1pet 2:23)。このことはキリスト者に隠されているようでしかたがない。