2013年7月18日木曜日

「福音」という言葉

「〈ギ〉ユーアンゲリオン.古典ギリシヤ語では,このことばは良い知らせに対する報いであったり,それを伝えた人への報酬を意味すると共に,その知らせ自体をも指した.元来は勝利の知らせであったが,後には,喜びをもたらす知らせを意味するようになった.」と聖書辞典に載っている。
そういう意味でマルコの福音書に「「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」」(mark: 1:15)と言われたイエス様の言葉は、イスラエルの回復という意味で良く分かる。

しかし、今日福音派といわれている人たちの「福音」は「罪からの救い」が強調されてそれがすべてのように捉えられていないだろうかとふっと思うことがある。勿論これは大切な事であることは良く分かるがこれだけが強調されると「福音」がご利益的なものになってしまわないだろうかと。先日もあるところで「地獄に行かないで天国に行ってもらいたい」と会話の中であった。これもよく分かる。しかし、そのためだけにイエスさまは来られたのだろうかとふっと思った。もし罪からの救いだけであればイエス様でなくても御使いでも十分ではと全く根拠なき言葉だが思っている。良く分からないがもっと人格的な結びつきではないだろうかと思っている。人がどういう常態かというよりもどういう関係かの問題を放蕩息子の譬から教えているのではないだろうか。単純化することは分かりやすいしサルもそのような所で生まれ育ったから良く分かる。もしそうでなかったら聖書に更にふれるということもなかっただろう。しかし、そうするとあるものがスポイルされる嫌いがある。今、そのことで悩んでいる。聖書の言葉を伝えるということにおいても聞く者がそれで納得するか否かは別にしても「罪だ審きだ地獄だ」と言えば分かりやすい。そして「天国」があると。それとすべてのものを創造された神を物を製造されたような捉え方をする。しかしそこには愛情を込めても人格的な結びつきはない。人との人格的なふれあいの少ないサルにとってはチョッと耐え難い。神を全人格的に語るというのはサルにとっては難しい。「福音の再発見」、まだツンドク状態だが答えを得ることが出来たら幸いである。