2015年9月19日土曜日

最近思うこと

2pet: 1:20

それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。

冒頭の聖句はいつも我が頭から離れない。それは絶えずこの過ちを犯しているという自覚があるからである。しかし、それほど深刻に考えたことはない。それは、聖書をきちんと学んだわけでもなく、不完全な者が完全なるものを理解することは不可能であり、私的解釈をせざるを得ない。しかし、教団とか諸集会の聖書理解が完全だとは思っていないからということもあるが我が聖書理解はブレが多すぎることは事実である。そんなことを承知してこんなことを書こうとしている。

イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたにはなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたのは残るのです。」

固定観念という言葉がある。聖書に適用しようとするには乱暴な言葉かもしれないが結構この言葉に囚われていることって多いのではないだろうか。最初に浮かぶのはエズラ、ネヘミヤ記に見る系図を重んじて混血を排除した経緯に見ることができる。律法が確立したのはバビロン捕囚時にと聞いている。神殿礼拝から神殿がなくなれば当然の帰結と言えるかもしれない。

そして、その延長に律法学者やパリサイ人たちがおり、さらにその延長線上にキリスト者がいる。それはヨーロッパに於けるユダヤ人の排除に見ることができる。スペインではユダヤ人改宗者をマラーノ(豚)と蔑称していた。それだけでなく彼らの中の多くに人たちを拷問して殺している。キリシタン迫害の逆バージョンである。そこに一貫しているのは「これが神のみこころである」という強い確信である。謙遜とか謙虚のひとかけらもない。罪の論理は排除することであり神の論理は?受け入れることとするのは少し乱暴か?