2017年9月26日火曜日

ピノキオの冒険


「ピノキオの冒険」という本を図書館から借りて読んでいる。図書館で「ピノキオ」の本をと言ったら係員が児童図書のコーナーから「ピノキオの冒険」なる絵本を持ってきてくれた。140頁余りの絵本なのだが大判の所為か何かと読みづらくスイスイとはいかない。

「ピノキオ」は名前は知っていたが内容は人形が最後に男の子になった位の知識しかなかった。どこか聖書に関連づけるものがあるのかなとの思いで読んでみようと思った。

物語は
「むかしむかし、一本の丸太があったんだ。たいして立派な木だったわけじゃない。ごく普通の丸太。」で始まる。この木は泣いたり笑ったり話すことの出来る丸太だった。人形作りのゼベットじいさんはみんなが驚くような操り人形を作ろうと思っていた。そんな時この丸太を贈られるのである。彼は喜んで人形を作り「ピノキオ」と名付ける。この人形は目で物を見ることができ、耳で聞くことができ、口で話すことができるし自分で歩くこともできる。ただ嘘をつくと鼻が伸びるという特徴があった。そしてゼベットじいさんの元を離れて出て行ってしまう。ここからピノキオの冒険が始まる。というより悪さをと言った方がいいかもしれない。ゼベットじいさんの優しさを逆手に取るように、ある時は悪いと分かっていても誘惑に負けてしまって「悪」の道に走っていく、そして災いをこうむる。悪の猫とキツネ、善のコオロギとカタツムリとの出会いの中で彼は変わっていく。巨大なサメに食べられ、そこでゼベットじいさんと出会い、そこから命がけ脱出するがそれは自分が助かるためではなくゼベットじいさんを助けるため懸命に海岸へと泳ぎ、マグロの助けを借りて助かる。ある時、上着を買いに町に出掛けるが途中にカタツムリに出遭う。妖精のお母さんが病気でお金もないので困っているという話をするとピノキオはそのお金を渡す。上着は?の問いに「また働いて買いばいい」といつもは8つ作る籠を16個も作った。以前だったらゼベットじいさんが自分の上着を売って買ってくれた教科書を売って遊びに使う様な自分本位の子だったのに今は自分のことよりも他人のことを優先する子になった。お蔭でピノキオは一人の男の子となる。という物語である。

最初は欲望のままに、実に計算高く、そのために騙され金貨を失い、善意の妖精やコオロギやカタツムリの忠告を無視したお蔭で危険な目に会いながらも少しづつ変わっていくピノキオはこれでもかこれでもかと神の前から離れた人間の姿を見る思いと人形にすぎないピノキオが一人の立派な少年となる姿は救われて神の子とされたキリスト者とダブる。


補記として、ウエキペデアから

「作者のコロッデイは1826年11月にフィレンツェで生まれている。1861年にイタリヤが統一されたが国家や政府は外国からの従属的な状況に置かれていた。

1843年、スコローピ修道会の学校を卒業。これが最終学歴となった。翌年、フィレンツェの出版社ピアッティ出版に職を得て、そこに出入りする知識人と面識を得るようになり、特にジョヴァンニ・バティスタ・ニッコリーニに強く影響を受けた。彼から、愛国心共和主義の精神について深い感化を受ける。1848年第一次独立戦争への義勇兵としての参加など、その影響は作品の内容にも及んでいる。

1847年以降、雑誌への寄稿など、作家としての活動を始める。音楽・演劇・政治・文化批評など、その執筆分野は非常に多岐にわたる。コッローディのペンネームを使い始めるのは、1856年から。さまざまな記事を書きながら、彼の関心はイタリアの国民が自分たちをひとつのものとして感じることができるような自国語の共通の基盤を培うということに向けられ、それが次第に文学を通しての国民、特にその未来を担う子どもたちの教育に向かうようになる。1870年代後半から、シャルル・ペローの童話の翻訳をしたり、その中で童話のイラストを担当したエンリコ・マッツァンティと一緒に組んで仕事をする機会が増える。1881年、『子ども新聞』に最初の一部を連載した『ピノッキオの冒険』に、1883年、イラストを添えたのもこのマッツァンティである。」

とあるように彼はたんに子どもたちのために童話をというより時代を担うイタリア人はどうあってほしいかというメッセージが込められているようでもある。