2017年10月22日日曜日

逞しさ


「働く、ということ」という題の本を以前読み、副題に「十九歳で社長になった重度障がい者の物語」とあった。どこかのネットで見てアマゾンで取り寄せたと思う。アマゾンに二種類あったので続編かなと思って取り寄せたらそれは文庫本だった。帯に「僕には働く場所がなかった…だから会社を作ろうと思った」とあり、そのさらに下に小さく-ホームページ制作会社設立2年目、「寝たきり社長」の奮闘記-とあった。二十歳前後の二人の障がい者が立ち上げた会社である。まだまだ軌道にまで行っていないようであるがそれよりもこのバイタリティに敬服する。出版されたのは5年前であるから状況は変わっているかもしれない。

性格が今一だがどちらかというと健康体である自分でも生き辛さを感じる時がよくある。それが寝たきりである。それなりの精神力がないと生きていけないであろうと推察する。良いご両親や周りに恵まれているということもあるのかもしれない。しかし、両手の親指がかすかに動くだけ、それでマウスを改造してパソコンが使える。

知的障がい者の施設で少し働いたことがあった。どちらかというと軽い人たちが多かった。だから自分でたいていのことは出来る。器用だが計算が駄目だったり、不器用だが計算が得意だったり、あるものが欠落している。だからそこをサポートしてあげれば普通に生活できる。欠けている物は精々10の内の一つ、二つくらいであろうか、多くをサポートする必要はない。

私たちは社会人として生きていくにはと、ある枠をはめてしまう。そこからはみ出た人を排除してしまう。それは全体の効率の良さや秩序を保てる強者の論理が働いている。弱者は疎外されるのである。

彼は自分の出来る或いは持っているものを最大限に生かして自立しようとしている。その為に周りがサポートしているようでもある。ともすれば甘いが出たり善意の押し付けになったりすることが多々ある。互いの自覚が必要かもしれない。その辺は気をつけているようである。障がい者の人たちがごく自然な形で仕事をし、ごく自然な形でそれを受けとめていくことが大切な気がする。頑張ってほしい。こう書きながら折れやすい自分を見て羨ましく思うこともある。「生きる」ということに苦労されている彼らを見て、日常生活の中でほとんど自分ですることができることに感謝が少ないなぁと反省させられる。「生きる」ことではなく「生かされて生きる」のであろう。そこには健常者も障がい者もない。そのように思う。