2007年12月19日水曜日

クリスマスに想う

 rom 8: 3
神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

 イエス様の誕生を祝うクリスマスが近づいてきた。救い主がお生まれになる誕生物語は教会学校などでも劇にもなって祝われている。教会では最も伝道効果の大きい季節でもある。幸いな事であるがイエス様の誕生は十字架と結びついている。

 「キリスト我らの罪を負い給へりと云ふは、彼れ我等に代わりて神に罰せられ給ヘリとの意にあらず、我らの罪を己が罪なるかの如くに感じ、痛くこれを嘆き給へりとの意ないり、我ら罪を犯してキリスト傷み給はざることなし、そは彼は罪を憎み給うと同時に又我らを愛し給へばなり、我らが罪を犯すたび毎に、更らに彼を十字架に釘(つ)けつつあるなり、彼の聖体を傷つくる者は鉄の釘にあらずして人の罪なり、我等彼を休め奉らんと欲せば、罪去て之を遠ざくるべきなり。」ヘブル書6章6節 と内村鑑三は書いている。

 罪の無いイエス様が神に罰せられる為に罪深い肉を取らざるを得なかった。それは肉において罪を処罰される為であって、私の罪を我が罪としたところにあるの意は大きい。これは神の苦しみでもあるような気がする。勿論イエスさま自身の苦しみでもある。