2007年12月28日金曜日

パンくずを拾って

 タイトルを聖書から持ってきたのだが足元を見るようで、どうも発展性がないような気がする。飛翔するとかそんなタイトルで、内容があれば良いのだろうが、でも好きな言葉だ。それにパンくず即ち人が省みないものでも私にとって十分すぎる思いがあるから結構である。主との係わりの中にあるならば不満は有りえない。

 昨日で仕事を終え、珍しく年賀状も出してのんびりしている。今日から6日まで10連休、今年を振り返り、来年に備えるには充分な時間である。

 4月から知的障がい者の作業所で週4日働いて、四苦八苦の連続だったが彼らと出会って良かった。軽度の所為か戸惑いもあったが愛すべきものを持っている。あと3ヶ月苦労させられたり、新しい発見をしたりと少し慣れてきたから残りが楽しみでもある。
また年と共に覚えることの難しさを改めて経験させられた。岡谷にとの思いがあるがこんなんで大丈夫だろうかと思ってしまう。今の所そのことでへこんではいない。

 賑やかなクリスマスも終わって、静に新しい年を迎えようとしている。来年は聖書をもう一度学び直そうと思っているので今年中に下準備を整えるつもりだ。分からない事が多すぎるし、集会の聖書の捉え方も必ずしも正しいとは思わない。ある種の狭さを感じる時もあり、何かバランスを欠いているような気がする。

 isa:63: 9
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

 神から離れていくイスラエルの民がそれによって苦難に会う時、神も共に苦しむのである。クリスマスが過ぎて、フッと毎日がクリスマスではないか。それは毎日が十字架であり、復活なののだ。と思ったら十字架は原罪のためだけでなく、毎日犯す罪のごとに私は主の手に釘を打ち付けているのではないかなと思った。人を赦さない事も怒りも主の苦しみに繋がることを知った。主の苦しみを思うとまた違った展開になるような気がする。