2008年10月12日日曜日

デスペンセーション 

 最近ファンタメンタリーとかデスペンセーションという言葉を良く聞く、といっても本とかインターネットの上だが、それは自分が興味があるから、その辺りをアクセスしているのかもしれない。なんか信仰は単純とは行かないのか変なことに興味があるのかわからない。知的興味は信仰の歩みにどれだけ寄与するのだろう。寄与してもそれは自己満足に陥らないだろうか。本当は日々の歩みの中に生きた信仰として働かなかったら力とならないような気がする。今そのジレンマにあるが小さな集まりの中でそのことを突きつけられているような気がして感謝している。具体的にどう答えるかが問われているからである。