2009年2月1日日曜日

話し終えて

元々人に言葉をもって伝えるというのは苦手である。以前は家内に「お父さん主語が抜けている」と云われ、言い替えて話すと、「それで分かった」とよく云われた。最近ではないが息子にも話をした後「意味がよく分からない」と云われて、言葉を選んでゆっくりと話しをしたら「最初からそう云えばいいじゃん」と云われムッとしたことを覚えている。そんな訳だから、話の準備をしながら、今度の水曜日に使う「使徒の働き」の梗概を作ったりしていた。パソコンと睨めっこで、調べものを纏めていくのはなんとなく性に合っている。人は嫌いでないがどこか苦手でもある。

サムエル記のダビデとバテ・シェバから話をした。少し角度を変えて、常識で考えたら明らかに悪いことであっても、そのことに気付かないことが、私たちにある一般論的に話し、ナタンの譬え話で怒るダビデの姿を「正義感」と捉え、これは人を裁き、赦すことができない。時にはそれを自分自身に向ける。ナタンは「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。」と、神は「赦す神」であることを、家内からは今一の感をもらった。聞き返したが、私としてはまぁまぁ上出来、人がどう捉えたか考えない。鞭木牧師は話した後は何も考えない。「先生、今日はよいお話でした」といわれた時は、あぁ今日は駄目だったの思うようにしている。そして翌日山に登ると言っていた。面白い牧師だ。牧師と一緒にするつもりは毛頭ないが。

その後、家内がダビデは悔い改めたから赦されたと言ったので、違う赦しがあったから悔い改めることが出来た。放蕩息子は帰ってきたから、父は受け入れたのではない。出て行った時に既に受け容れていた。だから帰れたとしつこく言ったら家内沈黙、
集会で受け容れられるか分からないが、福音の根幹に関わる事だと思っている。私たちの世界はギブアンドテイクの世界。それならば悔い改めたから受け入れたとなるが、神の世界はテイク、テイクの世界である。でもこんなこと理解されないなぁ。そこが集会の一つのネックのような気がする。独り言。