大塚野百合さんの本を読み終えて、断片的なものだが改めて賛美のことを考えることができた。読んでいる中で教会での賛美は会衆が聴くという立場ではないだろうかと思った。集会では聴くことよりも共に賛美することが多いから歌えないといけない。
昨年のクリスマスに千葉にある集会のI兄姉が来てくださった。姉妹は音楽の専門家なので、姉妹の指導で月に一回賛美歌の練習を集会でやっている。みんなで賛美しているときに、ご主人である兄弟の音程はしっかりしているように思えた。集会で歌の指導をしてくれる人がいないと歌うことがどうしてもしりつぼみ的になってしまう。
以前いた集会は賛美が好きな兄姉が多く、一人の姉妹は聖句に曲をつけて、集会で歌集にしようとしている。聖句歌と言うとムーラン兄を思い出すが雰囲気が大分違うのでとてもいい感じがしている。それでも新しい歌は苦手だが。
礼拝賛美歌を1991年から賛美した番号を控えているのを昨年整理して、賛美していない曲が割と多いのと、200番は61回、10番は42回、28番は41回、7番が37回、212番が31回も賛美していた。パラパラとめくってみるとあぁこれもいいという賛美歌は多い。はるか昔にクリフト兄と大谷兄が作ってくれた賛美歌の伴奏のテープがまだ手元にあったので聴いていたら結構知っているがあったのには驚いた。
礼拝賛美歌は集会関係だけだが聖歌は福音的な教会で使われている所為か範囲が広いような気がする。黒人霊歌の400番などは歌詞ともに好きで歌の世界に入ってしまう。心の思いを賛美の言葉で代弁してくれるし、自分もそのことばの世界に入っていけるのがいい。祈りであり、メッセージであり、主との交わりでもある。賛美歌を作られた人たちの思いを知ると自分も主の思いの中に入っていけたらと思う。
なおもみめぐみをなおもみすくいを
なおもわがためにみうせし主をしらん
なおふかく主をなおふかく主を
なおもわがためにみうせし主をしらん
聖歌594