2009年8月13日木曜日

愛するということ

 こちらに来る直前まで調布にある福祉作業所にお世話になっていた。作業のお手伝いのようなもので1年と3ヶ月だけだったがとても有意義だった。仕事によっては彼らの方がうまくて、なおかつ早いので焦ったこともあったがすぐ気にならなくなった。それは彼より優れなければと思うことは差別であることに気が付いたからである。確かに一人計算の出来る人がいて、計算するようなことがあると良く頼んだり、急ぐときには得意な人にやっているのを止めて頼むこともあった。文句を言いながらも喜んでやってくれるからうれしい。しかし頑固でプライドが高くて、手のつけられないときもある。でもどこか憎めないというより愛すべき者たちだった。

 作業所に時折お母さんが手伝いに来られる。その方たちと仕事の段取りをしながらお話しすることも多い。軽い世間話から子供の将来のことをフッと漏らすちょっと深刻な話と色々である。そんなときに思ったことは、私と彼らが事故にあって、私が亡くなったら可哀想にと思っても自分の子供が助かったらほっとするだろうなと思った。ハンデイがある分お母さんの思いは強いような気がする。

 愛情いっぱいに育った人、どこかスポイルされて育った人、それがどこかに現れる。彼らを理解するにはそのことをも判断しないといけない。作業をしているとそれだけではないこともあるが。そんなことを思いながら神様と自分の関係を思ったりもした。彼らが神の視点を正してくれたような気がする。減点主義の神ではなく、こんな神に愛されているのである。

「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。 」isa:63: 9