2009年9月5日土曜日

ベテスダの池で

 ヨハネ伝の5章を読んでいて想い巡らしている。
神殿からすぐ近くにありながら城壁にさいぎられて別世界になっている。日本人流にいうなら信仰心の篤い善男善女が神殿に御参りし、幸か不幸か城壁一つ隔てた向こうに、悲惨な情景を知る事も見る事もなく、満ち足りて帰って行く。たとえ城壁がなくても「良きサマリヤ人のたとえ」ではないが見ないようにして行くだろうなと思ったりもしている。彼らにとって「義」や「聖」とはどういうものなのだろうか。自分の義とはこういうものかもしれない。神の前にどれだけの意味があるのだろうか。
 本間俊平は学校に劣等性がいるのは優等生が本当の優等生でないからだと言われた。自分だけが優秀だなんてどうだろう。劣等生と共にいるのが真の優等生なのかもしれない。優等生とか劣等生なんて死語かな。

 イエス様がエルサレムの神殿ではなく、ベテスダの池に目を向け、生きたいと願いながらも生きるのに絶望している人に語りかけ、愚痴としてだけでなく、彼の心の叫びとして受け止めておられたのではないだろうか。愚痴や心から叫びたいと思っている人って結構いるのだろう。身近に聞いてくれる人がいるって幸いなことだ。そういう意味ではイエス様は最高である。

 イエス様は「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」と言われたがこの事を見るとまさにそうだと思う。 「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」 とも言われたが彼らにとって人を生かすより、安息日が大切な事がよく分かる。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」とも言われた。宗教指導者に対してイエス様の強烈な問いかけがあるような気がする。しかし彼らは何もわかっていなかった。心しなければと思う。