2009年11月28日土曜日

日本語

 以前いた集会に神学大学で勉強された兄弟がいて、学園紛争の世代だからちゃんと卒業出来たのか定かではない。北森嘉蔵が先生だったそうで「聖書百話」の本は分かりやすくて良かったと言ったら、何年も使ったような同じテキストで講義をして話はつまらなかったと一刀両断。良く知らないが日基等の牧師の名前を言って、一緒に勉強した仲だといっていた。マンションの一部屋は壁一面本だらけ、それも難しくて高い本ばかり、TVなしで時間があったら本を読むといっていた。ギリシャ語もへブル語も堪能で、勧められたが語学は苦手でことわった。若い人の中に興味を持っていた人たちがいたがどうなっただろう。

 どちらかというと聖書は学問的に捉えることが主体で福音は違う次元のようなことを言っていたように記憶している。冗談に「ここは逐語霊感説をとっているところだからあなたはここにいるのは可笑しいんじゃない」といって冷やかしていた。彼は「私はかまわないのだ」といって笑っていた。集会の鷹揚さが気に入っているかのようだった。俗にいう神学を勉強していたといっていいのだろう。ここで神学論争をする積もりもないしあそこで出来る基盤もないことを彼は良く知っていた。

 神学とは彼が勉強してきたようなことを言うのではないだろうかと自分では思っている。しかし聖書を極めようとするときに(勿論極められないが)そこにはすでに神学といえるものがあるのではないかなと思う。このような集まりでは「神学」という言葉はアレルギーになっているように思う。神学も信仰よりも、より学問的なものに重点を置いているものから深く信仰に根ざしたものとその幅は大きいのではないだろうか。「神学」という言葉でひとくくりにしてほしくない。

 「宗教」という言葉もそうだし「キリスト教」という言葉も然りである。ただ言葉で判断するのではなく、相手が言っている話の前後を踏まえて判断してほしいと思う。神学を批判するときに言っていることも然りだが「人」の資質のようなものが問題になっていないだろうかと思うことがある。どちらにしても細かいし、日本語の言葉のあいまいさもこうなるのだろう。それと単純明快に言えば判りやすいから断言してしまうから聞く側にも問題があろう。わかりやすいがホント?と思うときも無きにしも非ずだからなぁ。でもそんな単純なものでもないのだろうとも思うが。