2010年10月22日金曜日

水に流す

日本は水の豊かな国の所為か日本語には水に関する言葉が多いような気がする。例えば、水に流す・水くさい・水かけ論・水清ければ魚棲まず・水心あれば魚心・水をさす・水の泡になる・みずみずしい・水もしたたる…等々。しかし最近は雨が降らなくて渇水になったり、降れば降ったで集中豪雨になり、恵みのというより災害が目に付くようになった。


先日、息子の引越しの部分手伝いをしていて、彼が渡してくれた「心に刻む」という題の小冊子、明治学院が戦後50年を記念して発行された15年前のものである。当時、集会に明治学院の学生がいたからその人たちの誰からかもらったものであろう。


副題に「敗戦50年・明治学院の自己検証」とあるように、当時の学長の中山弘正氏が学院としての戦争責任を告白されて企画されたようだ。戦前戦後を通して学長をされた矢野貫城氏の言葉が比較されるように載っていた。このことにはコメントを控えるが、先日、テレビで三浦綾子さんの人となりを放映されていた。彼女は先生として子供たち一生懸命に教えてきた教科書に墨を塗って行くことに耐えられなくて先生を辞めていく、そのときはクリスチャンではなかった。

戦前活躍したクリスチャンは概ね戦争肯定ではなかったのではないだろうか。そのような中でホーリネスを筆頭に集会や無教会関係の信者も刑務所に入っている。戦争というものは人間の感覚を狂わせてしまうらしい。これは日本人だけでなく、すべてである。今も印象に残っているのは、アメリカがベトナムを空爆しているとき、それも枯葉剤を撒いているときではなかったか、ある宣教師がこれは悪魔との戦いであるようなことを言われて、やっていることは当然のような口ぶりに驚いたことがある。共産主義=サタンの構図なのであろう。戦争はあらゆる物を狂わせてしまうようだ。

戦争責任を強く糾弾するクリスチャンがいる。正しいかも知れないが、天皇制を動かすことの出来ない事実の前にあっては無理なことであろうと思う。批判する側もされる側も結局いのちの掛けていないのである。そんな中で戦後の日本をどうするかで苦労されたクリスチャンたちがいたことを誇りに思う。キリスト教界では本流ではないかもしれないが、それも批判の対象になっているようでもある。

最初に小冊子を読んで、過去を「水に流し」て、それでお仕舞とする日本人の生き方に感心したのである。矢野貫城氏は後にあるキリスト教大学の学長にもなっている。学問の世界には縁遠い者だが、それでもわからない。真理に立つとか弱者の側に立つとかは、少数者の道であり、狭き門からの道であろう。自分の立場をしっかり確保して叫ぶのはフェアじゃない。