2010年11月3日水曜日

痛みを知らない日本人

先週、群馬県の桐生市で小6の女の子が自殺した。
お母さんがフィリッピン人であることが大きな理由らしい。マスコミはいじめがあったとかないとか論じているがこれはいじめではなくて殺人である。給食の見取り図を見たが、彼女一人で食事をし、他は何人かのグループで食事をしている。自分と違うものを排除するこの論理、昔からある村八分の論理かもしれない。子供を責める前に日本人の少数者を排除する論理を正さなければならない。昔、「赤信号みんなで渡れば怖くない」というコントがはやった。みんなで行動すればそれが正しいかどうかを判断しないという発想はすごいと思う。それがかつての戦争の中にもこの発想が生きているような気がする。

いじめとはそこに存在しているから受けるのである。ある意味で存在していることを認めているのである。これは大切なことである。無視とは、そこに存在していることを否定していることである。存在を否定するとは、そこに存在してはならないのである。存在しているのに存在してはならないとは、排除ではなく殺人であると思っている。

創世記のはじめに、神から離れたアダムとイブに「あなたはどこにいるのか」と問いかけている。叱責の前に存在を確かめようとした。福音書を読むとイエス様が絶えず少数者、阻害された者に語りかけているような気がする。しかし、キリスト者が教会が同じことをやっているとは限らない。否、あの少女の同級生と同じことをやっていることを見ることがある。キリストの名の元に、組織の弱さである。しかし、このような弱さを持っている教会を花嫁としてイエスは捉えている。不思議に思う。