2010年12月9日木曜日

クリスマスに思う

私が小さい頃はクリスマスやサンタクロースという言葉は余り聞かなかった。地方の田舎までジングルベルの音は聞こえてこなかった。それに靴下は木綿で穴が開きやすく、足袋が主流の時代である。サンタクロースが来ても煙突も靴下もない。東京に来ても縁がなく、繁華街でお酒を飲んでとんがり帽子をかぶって騒いでクリスマスを祝っている?姿を見て、キリスト教を冒涜するものだと思いながらも私には関係のないものと冷めてはいた。それがクリスマスセールとデパートを始め、商売に使い始めて、クリスマスやサンタクロースの名前が一般化したように思う。そういう意味でクリスマスの名前を広めた功績は大きい。

しかし、本来のクリスマスを伝えようとすると無関心である。日本人は本質をすり替える名人なのだろうか。たしかに日本の仏教は原始仏教と違ったものになって発展したと言われている。今はキリスト教はマイノリティだからいいが、信者が人口の10%、20%となるようになったら大分変質してくるかもしれない。質は脇において、そんな日本を想像もしてみたい。それには、ニーバーの祈りではないが「変えるべきことを変える勇気」が必要だろう。『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』(luke:7:34)とクリスチャンが言われる時が来たらこうなるかもしれない。そんな時には、クリスチャンは本質とそうでないものを見分ける霊の力が必要とされるであろう。もちろん今日もそうであるが。

イエス・キリストの降誕の記事はマタイとルカにしかない。マルコはバプテスマのヨハネの活動から始まっている。福音書の記者がイエス様のどれを書いて、どれを書かなかったかをみると面白い、彼らの視点が分かってくるようだ。三つ或いは四つの福音書が同じことを書いているとこれは大切なことなんだなぁと思う。独自のものはまたそれで趣があり、福音記者のメッセージが伝わってくるのである。