2012年3月18日日曜日

葬式で

こちらに来て二度目の葬式である。キリスト教関係の葬式がほとんどで一般のはリタイアしてからはなかった。それだけキリスト者以外の交流が少なかったかあるいは殆どなかったということだ。考えて見れば楽な選択をしていたような気がする。

小さいか大きいかは分からないが一つ一つのことで教えられたり考えさせられたりしている。今回の葬式は受付だけで本葬には出なかったがそれでも思い巡らすことがあった。キリスト教では死はこの地上の労苦を解かれて永遠へのスタートであるから未来がある。しかし時には伝道という意味合いが強くて遺族に対する配慮が欠けているようなことを感じる時がある。ある意味でキリスト教の価値観を押し付けている感もないではない。唯一であれば絶対であり、絶対は「他」はない。これが謙虚さから出てくればよいのだがどこか傲慢さが見え隠れする。勿論本人はそんな意識はないのだろうがルカ伝18章にあるパリサイ人の祈りの姿とダブルのである。どのような形にしろ悲しみは悲しみとして共有できなかったらと思う。

仏教の葬式を見ていると家族には大きな悲しみがあることはわかるがどこかセレモニー的である。別離は悲しいが極楽に生けるならその希望があるはずであるのにそれがない。極楽ってほんとにあると信じているのだろうか。お経を読んでどうなるのか説明がない。勿論仏教の批判でなく素朴な疑問だけである。つどいの会では二月に写経があったから参加してお坊さんの講和を聞けたら少しは仏教のことが分かったかもしれない。今は手紙もパソコンで書いているほどに字が下手なのである。自分の書いた字が読めないときが多々あるようなすごい字だから心落ち着けて写経なんで逆立ちしてもできない。