2012年8月2日木曜日

準備するなかで

今度の日曜日に30-40分ばかりの話をするのでその準備をしている。準備する中でふっと思った。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」john 3:16

キリスト者にとって当然のように理解されている聖書の神はすべてを創られた方である。しかし、日本人にとっての神は極端な言い方をすれば欲求を満たしてくれる神であり、たたりをなだめる神でもある。そのような神認識をもっている人たちに聖書の神をどのように伝えればいいのだろうと思う。ましてや三位一体の神となるとさらに難しさを思う。

商売繁盛の神様、学問の神様、安産の神様、実に分かりやすいがそこには人とのいのちの交流はないように思う。創造されたということは創られた者への責任がある。だから三位一体の一格が崩れても?その責任を負おうとされている。それは三位一体の神でなくなる危険性を持っていると思われないだろうか。神々にはないが三位一体の神にはその根底にあるのは「愛」であることが分かる。

永遠のいのちや新天新地が約束されているが罪からの救いを強調するとこのすばらしさが判らなくならないだろうかと思ったりしている。サルも朽ちないいのちとか労苦や悲しみのない世界くらいにしか捉えていなかったのではないだろうかと反省している。永遠のいのちのすばらしさ、やがて来る新天新地のすばらしさをモット知りたいと思う。あまりにも肉に束縛されているが故に見えない、知り得ない。