2012年11月7日水曜日

無手勝流

どこをいじったのか久しぶりに聖書検索をやったら最初の20節分しか出なくなった。利用者キーにパスワードを入れないとこうなるのである。よく見たらパスワードが入っていない。いつも入れた状態で登録してあるのにそれが消えていた。パスワードを入れても駄目でこれはパスワードのbを間違ってdとしていた所為だったがそれが分かるのに二日かかり、いじってわかるわけでもないにパソコンとにらめっこをしていたら夜中の3時過ぎになってしまった。

駄目で元々でメールをしたらすぐ返事が来て、2版と3版のURLが出来ていて3版を入れる。今まで2版になっていて3版を見るには3版のところにチェックを入れないといけなかったので面倒だから2版のまま使っていた。これからは3版がそのままで使えるから助かる。あまり比較はしていないが幾つかのところで違いがある。しかし2版を使っている人が多いからどうかなと思うがといってもいつもの集っているのは6人から8人ではあるが。

送っていただいたパスワードをそのままにしてこちらで書いていたおいたパスワード入れて駄目でたまたまそのパスワードをコピーして貼り付けたら良くなったのでそれで確認したらbとdの間違いに気がついたのである。英語が苦手、パソコンも苦手であるがそれでもパソコンとにらめっこをしている時間を見たら「パソコンおじさん」と言いたいが年齢的にはもう「おじさん」ではない。その意識はないが年からいうとおじいさんなのである。

パソコンは分からないのでいじりだしたら更に悪くなり、そして堂々巡りをして時間ばかりたってしまうのというのが現実である。まぁなんとかできるようになってホッとしている。パソコンも無手勝流、無手勝流はパソコンだけでなく信仰も然りである。何事においてもセオリーを知らない。しかし懲りることなく無学を前面に出して顰蹙を買いながらやっている。この前も「聖書では神様と私たちの関係を親と子の関係に例えている」といいながら「日本人の神は父親のような存在で普段は煙ったがって避けているが困った時や願い事がある時にだけ頼みに来る」と、そして「聖書の神は母親のような者、絶えず子共と交わろうとし、関わろうとしている。父親のようにチョコット思い出してそれだけのような者ではなく(これはサルだけか)、絶えず心にかけていていてくださる」。ノーエンのコンパッションにはギリシャ語もヘブル語も哀れみは体の内臓を表しているようなことを書かれていたので、「母親がお腹の赤ちゃんを慈しみように私たちを慈しんでくださる」てなこと言っちゃった。自分の中にもあるが放蕩息子のたとえを語りながら実は放蕩息子の兄の姿を求めているのに気付かされる。一応形だけでもジェントルマンでなければいけないのである。本当に弱いのは一般社会の常識の中で生活できない人間を言うのであるがそれは否定される。イエス様だって当時は非常識人だったのだろうなと思いながら自分を肯定しようとしている。そこにはセオリーも信仰もない。あるのは無手勝流だけである。だからパソコンも信仰も進歩がないのはこんなところに原因があるのであろう。