2013年5月8日水曜日

ラオデキアの教会

福音書にこのような言葉がある。
人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」luke: 7:34
「食いしんぼうの大酒飲み」はイエス様を非難して言われた言葉である。しかし、彼らから見たらそう見えたのだろう。枠に囚われないイエス様は自由に取税人や罪人と言われる人たちの中に入って行かれて食事やお酒を飲みあっていたであろう。昔、読んだある牧師の本の中に「らい病人松田ラザロ君」というのを書いている。一見それと分かる人だった物乞いかと少しお金と思ったらそうではなく日曜の礼拝に教会堂の隅でいいから出席させてほしい。それに一夜の宿をと乞われ、物置を整理して泊めてあげた。当日、階段を上がれない本人と階段を前にして思案していた。抱いて上がる勇気はさすがになかったそうだ。そこに長老二人が来られて、経緯を知って両脇を抱えて階段を上がっていかれた。牧師も手伝おうとしたが長老の二人に「まぁまぁ私たちは先が見えています。発病しても十年はかかるそうだからその時は私たちはもうこの世にはいない。先生はまだお若いから」と、その時は正直ホッとしたと書いていた。戦前の話だから一般の人が「らい」に対する認識とユダヤ人が取税人や罪人と関わる事は似ているのかもしれない。汚れると病気がうつるの違いはあっても。

駄目教会、駄目信者の見本のようなラオデキヤの教会は蔑視こそすれ、共感を覚える教会も信者もいないだろう。しかし、共に食事をするという教会はラオデキヤの教会だけである。共に食事をするとは親愛のしるしである。キリストの座に着けようと言われるのもこの教会だけである。愛されていなければこんな事を言うだろうか。放蕩息子の父ははるか遠くに息子を見え出した時、どんなに喜んだであろうか。息子にとっては遠くに父を見ていたであろうが父は目の前に息子を見ていた。人が神を見る距離と神が我らを見る距離は全然違うのである。それを我らは自分の目線で神を見て、遠い存在としている。神は近くにおられる。時間も距離も一時間は一時間、一キロは一キロである。しかし、感覚的な時間や距離は短かったり、長かったりする。神は我らとの間は短い。罪が我らを神から遠くにいるように意識させている。罪の中にいても身近にいる。悔い改めがそれを確認させてくれる。