2013年7月8日月曜日

聖書的

長谷川町子さんの「いじわるばあさん」の四コママンガに「世界情勢を勉強しなければ」と新聞を読み、その結論は(名前は前後するが)「チャーチルもスターリンもトルーマンもドゴールも先は長くないな」(正しい言葉は忘れたがこんな言葉だった)。家族がぎゃふんとなるのだが我が論評も然りである。前もって断わっておく。

難しいので斜め読みも多い「一キリ」さんのブログを読んでいるとアメリカの福音派について語りながらある教派を念頭においてしっかり語っているような気がする。そこで生まれ育った者にとっては彼らの問いかけが良く分かる。というより自分も問いかけてきた事であり、これも現在進行形でもある。染み付いた物はたとえ間違っていると思ってもそう簡単に軌道修正はできない。チョッと大袈裟だがある意味でユダヤ人キリスト者の苦悩が分かる。

日本人キリスト者の現実を見せられるような文に出会った。上沼先生のブログにこのように書かれてあった。東京の東久留米にある宣教師の子供さんたちの学校であるクリスチャンアカデミーで勉強されている人たちがアメリカに散在していて、三年に一度、場所を変えて同窓会をしているそうだ。奥様もその一人とか、その中の一人の方が日本に行ったときの驚きを語っていた事が書かれていた。

「・・・異文化を経験して豊かになっている成人としての誇りを持っています。 その感覚は自然にこちらにも伝わってきます。異文化を経験し、そのなかで何かを考えていて、それゆえに理解されないことがあっても、それはまさに与えられた豊かさなのです。

そんなことを経験している人がしばらくぶりに日本に戻って驚かされたことは、日本の教会とクリスチャンが、自分の親たちが教えた生き方をそのまま踏襲していて、その虜になっていて、御霊の自
由と豊かさを欠いていることだと、立ち話で話してくれました。何とも納得させられることです。初代の宣教師がその文化と聖書理解を持って取り入れたことが日本でそのまま聖書的なものとして生き残っているのです。そのような親の世代の遺産に驚かされることがあっても、その違いも認めることができ、しかもそれも自分たちの一部として生きているのです。」

柔軟性の欠落は、サルの中にもあり、それで困っている事は多々である。硬直した発想、それがわかってもどうすることもできない自分の姿。生まれ育った地域の風土がそれを生み出したのか和辻哲郎の「鎖国」を読んで、辿っていくとそこにまで行くのかなと思わされているが少し大袈裟かな。