2014年5月26日月曜日

二つのはざまで

人は希望と絶望の間で生きている。
この二つはどのような状況にあるかでは左右されない。その持ち方で変わるのである。

イエス様が十字架にかかられたとき、本人は絶望していなかったが弟子たちは絶望していた。まぁわかりきったことだが、まさに先に望みがあるときはすべて希望へとつながり、その先に希望がないときは絶望になるのである。そして希望は肯定的であり、絶望は否定的である。

振り返ってみるとイエス様は肯定的であるが否定的に生きてきたサルは、どんなにイエス様の御心を歪曲して捉えてきたことかと考えるとぞっとする。これからもそうだろう。

イエス様が肯定しているところは肯定し、イエス様が否定するところは否定する。この当たり前のことができるかと問われたらできないだろう。パリサイ人は神の御心を律法を通してよく知っていた。しかし、これが御心だと信じてイエス様を十字架にかけてしまった。この倒錯がイエス様と人の違いなのである。

「ゼツボウ」(絶望)、イエス様が「ゼツボウ」の「ゼ」の点々を取ってくださったら「セツボウ」になる。「セツボウ」すなわち「切望」はイエス様に対する魂の渇きを訴える出来事である。ここから絶望から希望へ、歪曲から真の御心へと導いてくださると信じる。