2014年5月21日水曜日

懐かしさと後悔

ブログのお気に入りに入れている「一キリ…」さんのブログを読んでいたら「犬養光博」なる懐かしい名前が出てきた。知ったのはもう30年から前のことではないだろうか知っているといっても当時は日基の福吉伝道所の伝道師という名前だけである。「犬養光博」で検索したらその中の一つに中部学院大学のチャペルでの講演会の内容が学院のHPに載っていた。内容のほとんどが師と仰ぐ高橋三郎先生のことばかりに思わず苦笑いをしてしまったがそれだけ先生を尊敬していたことが理解される。先生も「十字架の言」誌に氏のことをよく載せていた。好意的に書かれていたことを覚えている。先生の厳しさは講演会でも言っておられたがその厳しい先生が好意的というよりほめていたと言った方が正解かもしれない。だからどんな人なのかなと思っていた。疲弊していた炭鉱の町で伝道者として働いておられるそれ自体が偉いなぁと思っていたし先生もそのことを見ておられたのだろうと思っている。氏はサルと同じくらいの年代で同じくらいに先生と出会っているようだそのきっかけも似ている。中身は雲泥だが。

サルも直接ではなく当時学生だったT氏に先生の「ヨハネ伝講義」を西荻窪にある待晨堂に行って買ってきてほしいと依頼を受けたのが最初のきっかけであった。新刊、古書、文房具類と店を三等分にしている店だった。ご夫婦は無教会の方であったが集会関係の人たちも知っており、訪ねた時はよくご夫妻と話をしたのを懐かしく思い出される。顧客は大学の先生が多かったのか新刊は高いのばかりであまり買わなかったが古書は珍しいのがあってよく買った。それでも地方の青年を対象とした講義のヨハネ伝は分かりやすく自分も購入した。集会でロマ書を勉強するその参考書をと思って探していたら先生のロマ書講義があり購入する。信者として歩き始めたばかりであり、集会なりの学びを聞いていた者にとっては驚きだった。今では当然のように語られているが当時は「無教会」というだけで一蹴されていた。でもある年の大会に借りている会場の管理の方が雑談している時にあなた方は無教会の人ですかと尋ねられたことを記憶している。色々なところが似ている。どちらも現代の教会を否定し初代教会を目指していたのであろう。しかし、先生は無教会があるのは「教会を通して」と言われていたようである。セクト化を嫌ったのだろう。ロマ書講義を通して先生に興味を持ち、ある時店の中で薄い一冊の月刊誌を見つける。それが先生の書かれている「十字架の言」誌である。早速購入しさらに定期購入をする。字が汚いのでもっと丁寧に書くようにと書かれてあったのを懐かしく思い出される。それに前年度の合本を送ってくださった。それから終刊になるまで読ませていただいた。薄いが中身の濃い誌だった。引っ越しで置くスペースの関係もあて半分くらい処分したが合本と1990年から終刊2009年までのは今もとってある。先生が事故で倒れてからやめようかと思ったり、正直関心も薄らいだ時もあった。先生のエキスをチョッと頂いて信仰の糧にしてただそれだけだったようなところもあった。もっと接する機会があり、教えを乞うことができたであろうに犬養氏ではないが怖くて尻込みをしてしまった。そして打算的な自分を今思い出して今頃後悔している。それでも後悔できることは感謝かなこれからの残された人生に生かせたらと願っている。たとえどのようであっても自分の中に大きなインパクトを与えてくださった。

ついでに「ロマ書講義」が与えた諸々のインパクトと同じように坂野慧吉牧師の「スピリチャル・ジャーニー」なる本も大きなインパクトを与えてくれた。諸集会は牧師も無教会同様否定的である。しかしこの本を通して牧師の謙虚さを知り、自分たちにないものを教えられる。勿論一概にどうこう言えないが学ぶべきものは学ばなければならない。そういう意味でカトリックからもと思っている。どうも日本人は否定的なことを強調するきらいがある。自分もその典型なのであるが。先生が召されて4年近くになる。ひょんなことから先生を思い、反省させられ、犬養氏の中にあった先生の週報の巻頭言集の「真理探究の旅」をアマゾンで購入し、今手にしている。読ませて貰ってまた先生の多岐にわたっての見識を通して教えを新たにしたい。