2014年8月4日月曜日

枯れたイチジクの木

聖書をただ読む者にとって、聖書は難解な書となる時が多々ある。神学は無縁であり、精々聖書注解書を読む位しかできないがそれで納得できるものではない。なんとなくそういうことかくらいである。万民の書である聖書は神学云々とは関係ないのかもしれない。「知」ではなく「霊」であるとも言える。ある意味で解る人にはよく解るがわからない人には全く解らない。その最たるものがイエス様であろう。キリスト教の開祖、優れた人物等々は万民が認めるところであるが神であることはキリスト者しか認めていない。認めていないという表現はふさわしくない?「私はある」、然りアーメンと言うべきか。聖書を読むのにイエス様が人か神かでは大いなる違いがる。

時々同じことを書いているが聖書を知らない時はキリスト教の経典位の認識しかなく自分には関係ないものと無関心だった。若いときはよく本屋に行っていたがそこで聖書を売っていることを知らなかったというより本棚の片隅に置いてあったのだろうが自分には関係ない、あるいは興味がないと見向きもしなかったのだろう。聖書に興味を持って初めて本屋に聖書を置いてあるのを知り購入したことを覚えている。

枯れたイチジクの箇所を読んでいてこんなことを書いてしまった。月一回の割で話すメッセージもそうなのだが最初と最後が違っている。と言うよりも一つの話をするとそれに関連した話をしていくが、その次となると「前の前」の話となんの関連もなくなってしまう。ゆうなれば「風が吹けば桶屋が儲かる」式の展開なのである。しかし起承転結でこうなればいいのだがそうはいかない。まぁこれは何かを発信するというよりも年とともに漢字が書けなくなり、記憶するという機能が坂道を転げ落ちるように落ちて行く現実を目の前にして抗っているのが正直なところである。それとブラインドタッチの練習を兼て書いているから書けるだけでもいい。でも発信できたらと思うが打つ玉がないし、それより「読める文章を打てるように」と固い頭を抱えて画面とにらめっこをしている。今のところの成果は今まで使っていたメガネでは画面が二重に見えるようになってきて目を細めないとよく見えない。確実に進んでいるのはこれくらいである。

この箇所の注解を見ると大体同じようなことが書かれている。勿論違っていたら困るが注解者によって多少違うのは当然であろう。二、三見たがフランシスコ会聖書研究所訳が一番わかりやすい。結論として、
1. イエズスが空腹であったことは、義と愛に飢えかわくイエズスを考えさせる。
2. 葉だけで実のないイチジクは、儀式と祭典で祝祭を飾っても、霊的には何の実も結ばなかっ たユダヤ人を象徴しているようであり、
3.のろわれたイチジクは、イエズスが要求される改心の実を結ばない人々に対する警告である。
とあったが頷ける。

福音書の中に取税人マタイの召命の記事が載っている(マタイ9:9-13、マルコ2:14-17、ルカ5:27-32)。あそこでパリサイ人や律法学者が弟子たちに「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」と尋ねた時、イエス様は「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人です。『わたしはあわれみを好むが、いけにえは好まない』・・・」。のことばを思い出した。今までなぜここで「医者」が出てくるのかと思っていたが取税人や罪人と言われた人たちは救われたいという自覚があったであろう。しかし、パリサイ人や律法学者はすでに救われているという自覚があったであろうからその必要性を感じない。それはイエス様を必要とするかしないかの違いとして出てくる。私たちは色々な形で必要なものを持っている。病人は医者を貧しい人は富を孤独な人には慰めを必要としている。必要がありながらその必要性を感じないということは恐ろしいことである。このようなことは病気を初めとして諸々のものがある。
そして『わたしはあわれみを好むが、いけにえは好まない』と、言葉そのものはよくわかるがその意味するところは「儀式と祭典で祝祭を飾っても、霊的には何の実も結ばなかっ たユダヤ人を象徴しているようであり」と「いけにえ」が合致している。あわれみは?ルカの福音書では大ぶるまいをしたことが書かれている。マタイ(レビ)はイエス様と弟子たちだけでなく大勢の取税人や罪人と言われた人たちにも食事を施している様子がうかがえる。取税人ザアカイはイエス様に「財産の半分は貧しい人に、だまし取った物は四倍にして返します。」と言っている。マタイもまた同じような思いであっただろう。飢えている人たちが食卓についている様子が伺える。飢えている人に食を与えるマタイと形だけを求めている律法学者パリサイ人の姿が浮き彫りになって見える。そして、「神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。」(ロマ11:22 口語訳)のことばを思い出す。