2014年12月11日木曜日

愛するということ


1cor 13: 2
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
1cor 13: 3
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。


聖書の通読を終わってから毎朝新約聖書を一章読むことにしている。勿論読めない日もある。何事も腹八分目ではないが一週間五日、インターバル速歩もそんな感じでやっている。先週は雨やみぞれで四日くらいしか歩けなかったが何事も無理なくやれるのが基本としている。この年で頑張れないし頑張るつもりもない。そして今コリント前書を読んで昨日かなここを読んでいた。なぜか懐かしさを覚えた。それは最初に聖書のことばとして印象になったことばだったからである。あるいは、信仰に導かれる過程での一つのきっかけになったことばでもある。

この世代はというより自分だけかな「愛」という言葉は照れくさくて言えないし愛することも不器用でできない。自分もやってみたいと思っているわけではないが相手にストレートでモーションかけることができる人をみると羨ましいなぁと思う。

そんな愛と無縁の男が「愛」という言葉に触れて感動していたことを昨日のように思いだす。しかし、その感動も遠い過去になってしまったようだ。それは、多分初めの頃は受ける側だったから受け取るだけでよかった。今は逆に受けるよりも与える側にあるような気がする。ない袖は振れぬと言ってそれで終わりになればいいのだがそうもいかない。求められるわけではないが状況としてそのように感じることが多い。

あるかないかとは別にもう一つのものがある動機である。純粋さが求められるが結構不純である。
損得抜きで相手に与えていると思っても実は自分の自己実現のためであったりというのが結構ある。否、すべてと言ってもいいだろう。無私でない限り「無償の愛」なんてない。そして肉が生きている限り無私はあり得ない。それができるのは無私のないイエス様だけだろう。もしそれに近づくことのできる行為は、「あなたはそれを成せば失いますよ」と言われたとき、それを承知したときであろう。何かを受けることを期待して与えるのは世の常、期待しないで与えるのはイエス様。変かな?

キリスト者になる前に観た映画「汚れなき悪戯」にマルセリーノが二階に上がってはいけないと言われていたが好奇心から上がり、その奥の部屋に裸の十字架のキリスト像を見つける。彼はその像に語りかける。正確なことばは忘れたが「名前はなんていうの」と尋ねると「私は与えるのだ。ただ与えるのだ」と答える。印象に残ったことばだった。今キリスト者になってそのことがよくわかる。

愛するとは、自分の命を削って他者に与えることであろう。召される前にまねごとでもいいからしてみたい。