2014年12月12日金曜日

希望とは

暮れになるともの好きというか暇なのか日の出と日の入りを調べている。信州の冬は寒く、日の出は遅く、日の入りは早いじゃ何一ついいことがない。春夏秋冬は三か月づつなのに冬は五か月近くもある。半年は冬と言われる北海道の寒さと比較されると何も言いないがそれでも言っちゃう。

春はそれこそハルカ先だし、身近な希望はいつから日の出が早くなるか、日の入りが遅くなるかである。といっても最初の頃は2-3日に1秒の変化にすぎない。毎日1秒と変化するのは一か月近くたってからのことである。それで日の入りの一番早いのが12月3-10日で16:31分、昨日から確実に日の入りは伸び続ける。これがささやかな希望であるがこれは岸洋子の「希望」のはかない希望と違って確実な希望である。

若いときに生きることに希望を失っていたことがあった。絶望していたわけではない。生きる希望を見出せなかっただけである。そんな中でほんの些細な行為が生きる希望を与えてくれたことを今もはっきりと覚えている。これが変わらない生きがいを求める一つのきっかけであったのかもしれない。

交流のサインカーブがある。ゼロを起点としてプラスとマイナスを交互に描いている。プラスでも下りがあり、マイナスでも上りがある。人生も同じで必ずしもプラスがプラスではなく、マイナスがマイナスではない。プラスのところに失望があり、マイナスのところに希望がある。勿論プラスにさらにプラスがあり、マイナスにさらにマイナスがある。人生もその繰り返しなのかあるいは同じことを繰り返していく中で螺旋階段を上り下りしているようなのかもしれない。

クリスマスが近づいている。昔は信徒でもないのに祝いるかと言い、キリスト者になればノンクリと一緒に祝いるかと誕生日同様に何もしないで終わっている。今年も然りであろう。勿論、集会のクリスマス会は年の一度のイベントであるから外見はささやかだが集会としては気持ちは盛大である。否、奉仕してくださる方がいるからできるのである。

イエス様の誕生の様子をルカは記している。馬小屋にというどちらかというと否定的な捉え方をしているがどこかで読んだこの出来事はそうではないようなことを書かれていた。母の実家では牛を飼っていたが牛小屋は母屋の棟続きだった。ある意味で大切な動物だったわけである。汚いかもしれないが隙間風が入るような形ではなく、牛小屋はないがしろにされていたわけではない。ナタンがダビデに例え話をする。そこに小羊と寝食を共にする貧しい農夫の話が出てくる。それはたとえ話ではなく実際にあり得ることであっただろうと想像する。だから家畜小屋といっても馬鹿にしてはならない。下手な部屋よりも大切な部屋なのである。そんなことを思うと見た目は悪くともイエス様にふさわしい面もあったのかもしれない。ルカは人が見過ごしてしまうような出来事を書いている。だれもが気が付かない幼児イエス様にシメオンやアンナが気付いて賛美している。イエス様に触れる人にはその人生を変えてしまうがすれ違っても気づかない人には何もない。

ささやかな希望でも希望は希望である。それによって生きる力が湧いてくる。あるいは耐えられる。しかし永遠ではない。しかしイエスさまは病気が治してくれるわけでもなく。勿論金持ちにもしてもらえない。むしろ困難な状況が待ち構えていることが多い。それでもイエス様は希望の星である。決して見失うことのない星である。否、見失っても安心して行ける方でである。そして永遠に。

最後に日の出は年開けて草々が最も遅い。来年の話なのでその時書こうと思っている。主は、ささやかな希望、否、すべての希望の源、そこに変わることのない希望がある。