2015年6月13日土曜日

赦し

うろ覚えであるが以前に高橋三郎先生が何かで書いておられた「救いが先か悔い改めが先か?」だったと思う。そして「神の圧倒的な赦しがあって救われ、悔い改められる」そのようなことを書かれていたと思う。最初に出会い、そして今も続いている集会は「救われるためには罪を告白し、悔い改めるなら救われます」と言われ、そのことを告白して救われたと思っていた。今もそのように信じているがその時は悔い改めが先になるのは当然ではとあまり意にも介していなかった。それでも頭の片隅にいつものこのことがあった。今、通読で創世記から読み出し申命記に入っている。前にも書いたが聖書は読むたびに立ち止って考える聖書の箇所が違っていて面白い。今回も然りである。


deut: 9: 5
あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである

とある。このことばに立ち止まって考えさせられた。イスラエルの民は荒野で神の大いなるワザを経験しても彼らは神に対する姿勢は何ひとつ変わることはなかった。荒野の旅をみれがよくわかるしカナンの地に入れば入ったで形は違っても同じことの繰り返している。そしてエルサレム陥落という大きな節目を経験した。かつては神に従うことは祝福を得、従わない時には災いがとイスラエルの民の姿を見てそう思い、集会の学びもそのようなことを言われたことは多々あったように思う。

今は、このような捉え方は因果応報的ではないだろうかと思うようになった。だから自分の好き勝手にとは思わない。私が従順、不従順で変わる神ではない。何一つ変わることのない神である。申命記の言葉を適用すれば、私が従順だからでもなく、忠実だからでもない。イエス様がこの地に人として来られ、十字架に架られて三日目によみがえられたという事実の上に立っている。私はこの事実に応答しただけで後はない。神の大きな赦しの中に私たちは生き動き存在しているのではないだろうか、そして何をするかではなくどのように応答するかが大切ではと思うようになった。そうでないと人を裁くようでしょうがない。また、


2pet: 1:20
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。

このことも無知なるが故に行っている。ただ大上段に構えて論ずるつもりはない。それは自分のところで治めているだけである。時にはこのことを通して福音主義に?を呈することもあるかもしれない。それは素朴な疑問としてである。