2015年6月4日木曜日

霊的認知症

元々物覚えが悪いのにその上歳を重ねて老人となった今、その度合は増し続けている。それだから暗証聖句なるものは若い時から我がうちにはない。若い時、P宣教師に暗証聖句を度々勧められたがあの忍耐深い宣教師があきらめたほどのツワモノである。こんなことを自慢してもしょうがないが自慢といえばこんなことしかない。

この日曜日にM兄が学んでくれて、その時はとても恵まれて、集会にとってもよかったなぁと主に感謝した。ところがどのくらい経ってからだろうか殆ど思い出せない。これは昔からのことでそれが早くなったに過ぎない。それでもメモを手掛かりにそのメモの部分は思いだすことができる。前にも書いたが記憶装置のないあるいは記憶の容量が少ないパソコンのようなものでその時はいくらでも打ち込めるがスイッチをオフにするとすべてが消えるような、あるいは少ししか残らないようなものである。食事の時に美味しいか不味いかの判断はするが素材は何で中に含まれている栄養素は何かなんてあまり問わない。信仰の世界はその辺まで問う、でも美味しいか不味いか正しいか否かでいい、そのくらいの判断はつくような気がする。

メッセージを聞いてその時恵まれればいい。一時恵まれればいい。その時その時でいい。積み重ねがなくてもいい。一日の始まりに主に祈り、執り成し、一日の終わりに感謝して寝床につけばいい。主はすべてのものを持っておられたがすべてのものを捨てられた方だ。私は一つ一つ捨てていく、否取られていく、それが無くなった時は地上の歩みが終わった時だろう。何時だろうか何時でもいい。早くとも遅くともどちらでもいい。どちらにしろ日々悔い改めて感謝ができるような信仰のありようでいたい。