2015年6月19日金曜日

神は愛なり

以前にも書いたが若い頃に流行っていたコマーシャルにクレージーキャッツの植木等さんが「何であるアイデアル」という折りたたみ傘の会社アイデアルのTVコマーシャルをTVで流していた。「愛」という言葉が茶化されるようで「神は愛である」という言葉が出し難かったことを記憶している。

しかし、最初に聖書のことばを印象深く覚えたのはカトリックのラジオ放送で冒頭に女優の河内桃子さんが「どんなに美しい言葉ももし愛がなければ相手の心に響かない。コリントびとへの手紙より」多分こんな言葉だった。何となく納得させる言葉だったのでよく覚えている。それにベートベンの第5かな「田園」がバックに流れていたのもよかったのかもしれない。

当時は愛といえば若者の恋愛くらいしか意識がなかった。同僚の恋愛を見て最初は「アバタモエクボ」の如しだが別れるときは憎しみをもってジエンドを見ていると愛については冷めていた。しかし、「野菊の如き君なりき」の映画にはジーンとくるものはあったが。この世代は親の愛情を言葉にしろ行動にしろ経験することは少ない。自分にもその記憶がない。それは涙もろい母が私が上京してから毎日のように泣いていたということを聞いてもどこか冷めていたから問題は我にありかな?

「愛」という認識がこれくらいだから河内桃子さんの声は強く印象に残った。当時オートバイに乗っていて事故を起こしても単車は壊れても本人が無傷ということもあって「どうもオートバイでは死ねないな生きる算段をしないと」と思っていた時でもあった。紆余曲折ほどではないが今集っている諸集会に導かれて今日に至っている。教会と違い信者同士は老いも若きも社会的地位に関係なく「兄弟姉妹」と言えるこの集まりには半端な人間にとって感謝なことである。

当時は神の愛をいっぱい知ったと思っていたが今思えばイエス様の衣にさえ触れていないのではないかと思っている。自分の罪赦されているということは大きいことだけど「神の国の完成」の中では小さいことだろうなと思う。大小・軽重の比較はご法度か。しかし、
rom 8:19-23
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

このパウロのことばを見ると自分の救いは壮大な救いのご計画のごく一部にすぎないように思えてならない。自分が救われていることは感謝だけれど自分だけが救われる人間だけが救われるというのは神の壮大な救いのご計画を矮小化しているようでしょうがない。

愛も然りである。救いを神の側から見ると壮大さを感じるが自分の側から見ると矮小化して見える。一万タラント赦されていても百デナリを赦すことができないのである。ある意味で赦された一万タラントが見えていないことになる。あるいはわかっていないということだ。愛は全人格的なものであると思っている。十数年前になるが息子に「あなたはいらないと人は言い、そして捨てるが親は捨てることができない」そのようなことを言ったことがある。神とて同じこと自分に従順だから愛し不従順だから愛さないなんて器用なことはできないお方なのである。

創造のわざを見てももし愛がなかったらなんと無機質なものになっていただろう。動くものが存在してもろポットのようなものでしかないのではないかと思ったりしている。命は愛が無ければできない。応答することもできない。「血はいのちである」ことは血が通っているということだ。いのちあるものが生きることはそう楽なことではない。しかし、色々見ていると神の創造のわざが愛に満ちていること教えられる。罪はこのいのちある創造のわざを大きく歪めてしまった。知識のない者であるがキリスト教会は聖書の理解を矮小化していないだろうか?不遜ながら…。

そんなことより、「遠くにいる人は愛せるけど近にいる人は愛せない」ということを聞くことがある。
時折口論して顔もと思ったりする家内をいつもにこやかに接っすることができるようになった方が「神の愛」がわかるのかもしれない。努力することなくにこやかに接するように私はなりたい。