2015年8月26日水曜日

あるブログから

議論の詳細は措いて、多くのプロテスタントでは代償的贖罪のみが語られてきた。つまり、イエス様が私の罪の身代わりとなって十字架にかかってくださったという面のみが語られてきたが、それでは不十分ではないか。それだと、罪赦された者としていかに生きるかがわからない。罪赦されたんだから、あとは自分で頑張れという新しい律法主義に陥ってしまう。そうでなくむしろ、御子の死による罪の赦しとともに、それを包括している御子の御父への積極的従順にこそ目をとめるべきである。御子は、その生涯を通し、そして格別、十字架の死にまでもしたがうそ従順を、御父にささげられた。私たちは、御子を信じたとき、御子の御父にささげられた従順という功に与ったのである、と。こういう趣旨のことを横浜のT師は力説された。
 私としては、義認と聖化とともに、「子とされる恵み」が肝心でありながら、従来、それが義認論に吸収されてしまったことに問題性を感じていた。御子の積極的服従にわれわれがあずかるという教理はむかしから知っていたけれど、それが子とされる恵みとつながるという大発見に感動して、暗くなっても目がさえてしばらく眠りにつけなかった。』 [ 小海キリスト教会牧師所感より ]

以前に小林崇牧師のブログを丸写しにして載せてコメントしたことがあった。要約するのが面倒でやったのだがまさか本人に見つかるとは思わなかった。最近パクリが話題になっているがそんな意図は勿論なくブログを読んで感じたままを書いたのである。それでもそれからは引用するときは部分的に、そして批判的なものではなく共観、あるいはそれに準ずるものに限定するようにしている。その後は殆どそようなことはない。

そのようなことがあったので引用するのは少し恐縮するが諏訪郡の隣の郡という好で(自分勝手に)、それに内容に共感しましたので引用せさせて頂きます。

私も「イエス様がわたしの罪の身代わりになって死んでくださった」ことを信じて信仰告白をして救われたと今でもそのことは信じている。ただ以前から気になっていたことがあった「死んだら地獄に、ならイエス様を信じて天国へ」の言葉を多く聞き、それはある面で間違っていないがそれだけのために?イエス様が人となり十字架に架ったのだろうかとの問いが自分の中に生まれた。主権を持っている神が私のためだけに?それは私が主体であって神は私のためになんてありうるだろうかそうしたら神の主権はと答えを見え出されない問いかけをしているようであった。

天国についても漠たるものであったがどうも自分が捉えている天国と聖書が語る天国は違うのではないだろうかと思わされてきた。それは黙示録にある新しい天と新しい地の約束である。肉とか地は汚れたものとして一蹴するのではなく天地創造から堕罪、新天新地は不連続なものではなく連続性を持っているのではないかと、ギリシャの二元論(詳しく知らない)が西洋のキリスト教界に深く影響を与えているのではないだろうかと思い、勿論自分の手には負えない問題であるから自分から答えは見いだせないであろう。極論であるが教会が起こした問題はここからとも思っている。聖書が語らんとしていることが曲解されているようで仕方がない。福音的と言われている教会も救いに特化している限りそのことを避けて通れないのではないだろうか。勿論自分の中に答えを持っているわけではない。漠然とした問いかけである。罪からの救いと単純明快な福音は伝えやすくわかりやすいがイエス様との人格的な結びつきやその他諸々の大切なものをスポイルしているようで…。

画家の山下清さんはこの人が偉いかどうかは社会的な地位を言ってもわからなかったそうで、軍隊の位で言ったら「この人は大将のようだ」と言えば「偉いんだなぁ」と分かったそうである。私も御多分に漏れず単純化しないとわからないが少し答えを見出したようで…うれしい。