2015年8月28日金曜日

列王記Ⅱを読み終えて

通読で列王記Ⅱを読み終えた。旧約聖書を読んでいて嫌なのは地名や人名がカタカナ語なので覚えられないことである。前に書いたが地名は調べてこの辺とわかってもすぐ忘れてしまう。列王記はユダとイスラエルの王様が交互に出てくる。そしてどちらも同じ名前に前後して出てきたりするとどっちがどうなのかわからなくなる。列王記Ⅱの最後の方はユダの王様もイスラエルの王並みにコロコロ変わっているから頭は飽和状態になる。要するに名前は素通りしていくのである。今回はその度合いが強くなったことを実感した。それは年を実感することでもあった。速歩だなんだと一見元気そうだが中身はじわりじわりの脳ミソの皺は減っている。髪はふさふさだが(頭の後ろの方にある円形脱毛症が産毛だけでちっとも生えてこない。もしかして円形ではなく永久かと恐れている)脳ミソはツルツルなのである。老化でも唯一進んでいるものと自虐的に慰めている。

列王記ⅠはまだいいがⅡになると坂を転げ落ちるように神かから離れていく、イスラエル王国は最初からだがユダ王国は後半のひどさは目を覆いたくなる。韓流宮廷ドラマにはまって(もうと思いながら抜けていない)それを観ているとユダ王国の経緯とダブるように見えるので重ねて観る思いだった。それと神から離れていく様は我々に不信仰の見本として提示されているように言われていたしそう思っていた。しかし、アダムの堕罪以来「神から離れる」ということは人間が持つ宿命のようなものである。ある意味で神を身近に覚えるということは特別と考えた方がいいのではないだろうか。即ち、これは恵みなのであろう。本来、私の側に無いのものなのである。イエス様が臨んできて初めて可能になったのであると思っている。落ちている自分を自己弁護的に書いてしまった。