パウロという人となりは使徒の働きやパウロの書簡を通して少しく知ることができる。風貌はあまりよくないようであり、激しい人のようにも見える。だからペテロに対しても間違っているものは間違っているとハッキリ言えたのだと思う。彼は晩年になって宣教の働きを若いテモテやテトスに委ねるようになった。しかし、
テモテはパウロと色々な点で好対照である。パウロは純粋なユダヤ人であり、ある種の強さを持った人である。テモテはギリシャ人の父を持つ故混血である。パウロは強さを持っていたがテモテは、どうもおくびょうであったようである。こんなテモテに宣教のわざを委ねるパウロの心境はどうだったのであろうか。
イエス様も同様に頼りない弟子たちに宣教のわざを委ねている。普通委ねるということはそれに足るが故に委ねる。しかし、イエス様にしろパウロにしろ委ねるに足りない者に委ねている。そのように思える。本来委ねるとはこのようなものではないだろうか。委ねるに足ると思う人に委ねるのは委ねると言えないような気がする。そこに信仰が必要であろう。現実に集会では不可であるがどこか能力で必要必要でないを判断されているようで仕方がない。