2015年11月2日月曜日

最近のこと

先週は大半は茅野にある義姉の家の庭の片付けをしていた。前に木を切っていたのを6~70センチの長さに切り、枝の部分もそれなりに切っていったが一抱えの束にして20前後にもなった。さすがに体の節々が痛くなってしまった。このような作業はやっているときりがない。まさに適当に切り上げる必要がある。と思いながらそれができない。あれもこれもと眼についてしまう。まだ丸太になった木や枝をどうするか清掃工場に持って行くには軽トラでも2~3回で済むかわからない量である。車を借りるには6~7千円かかるからそれまでかけてと思うし自分の車では小さいからその何倍も往復しなければならないしと今思案中である。

こちらに来て、鍬やスコップで畑を耕し、木を伐り枝を払って東京は勿論のこと田舎でも経験しなかったことをしている。しんどいなぁと思う半面いい経験をさせてもらっているなと感謝している。100坪前後あるのだろうかその三分の二あまりをやることができた。新しいところにニンニクとたまねぎを植える。これは家内の要望で他の人たちもそれを先週やった。何を植えるかは彼らに任せて私は下ごしらえである。庭の片付けも選定は彼らに任せ木を切り片付けるのは私の役目、こちらに来て自分の役目がよくわかる。大きな集会だとそれぞれ賜物を必要とされているが小さいところだとそれ以上に欠けたところを補う役目が必要であることを痛感する。だから欠点大いに結構、凸凹で完成するのである。聖書は本来このようなことを語っているのではないかなと思ったりもしている。現実には通用しないことはよくわかっているが。

姜尚中さんの「悪の力」という本を読んで面白く読み、こういう視点もいいなぁと思わされ、こういう見方っていいと思った。薄い本だが私には引用されているものがわからないので少し難しかった。姜尚中さんは詳しく知らないけれど好きな方である。あるブログにはいらくぼろくそに書いていたが人それぞれの見方があるからそう見える人もいるのかなと思ったくらいだが。聖学院大学の学長をやっていると知って期待したがもうやめられたようである。諸般の事情と書いていたが教育や宗教の体質の硬さを見る思いがした。本来中心は学生であるのであろうがそのために学校の体質まで変える勇気と力はないのが教育界や宗教界の姿なのであろう。残念でならない。あの大学はよく知らないがいい大学ではと思っていたがこれでこの先はないなぁと思わされた。残念。

ニュースで「20年前、大阪市で住宅が全焼し、小学6年生だった女の子が死亡した火事で、大阪高等裁判所は、放火や保険金目的の殺人の罪で無期懲役が確定したあと、再審=裁判のやり直しが認められた母親ら2人の刑の執行停止を改めて認める決定をしました。これにより、2人が26日の午後以降、服役中の刑務所から釈放される見通しになりました。」このようなことを聞き、唖然としてしまった。この婦人には男の子供さんがいる兄弟が焼死し母親と20年も別れており、それも犯罪人として、この子の人生はと思うと胸が張り裂けるような思いになる。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は「人のいのちは地球より重い」と同じようなものでしかないのか。今日の新聞には東経大の大出教授が名張事件について書いていた。自分たちの格式で一人の人間を物のくずのように扱っていいのかとそこにも人がもののように扱われているようで仕方がなかった。昨日はネットで「声をかくす人」という映画を観た。リンカーン大統領を暗殺した一人として一人の夫人が絞首刑になった。これも無罪であるはずなのにである。リンカーン大統領が暗殺されたというあまりにも大きい出来事故にである。

「悪の力」の帯に『「こんなワルは許せない!」この怒りを半分だけ肯定してみよう。』とある。自分は悪のどこまで許せてどこから許せないのかと思う半面、そういう判断は正しいのだろうか悪は悪でしかない。まさに軽重の差はないはずだがどこか許すものと許さないものがある。