2016年6月25日土曜日

今日のパン、明日の糧より

肉となる言葉   6/22

 言葉は重要です。言葉がないと、私たちの行いは意味を失ってしまいます。意味がないと、私たちは生きて行けません。言葉は展望、洞察、理解、ビジョンを提供してくれます。言葉は、慰め、励まし、力づけ、希望をもたらしてくれます。言葉は、恐れ、孤立、恥、罪悪感を取り除いてくれます。言葉は、和解、一致、許し、癒しをもたらします。言葉は、平和、喜び、内なる自由、深い感謝をもたらしてくれます。要するに、言葉はその翼で愛を運ぶのです。愛の言葉は、愛の行為の内でも、最もすばらしいものの一つにちがいありません。それは、言葉が私たちのいのちの内で肉となり、また人々のいのちの中で肉となる時、私たちは世界を変えることが出来るからです。
 イエスは肉となった言葉です。イエスにおいては、話すことと行うこととは一つでした。


心から出る言葉   6/23
 
 私たちの内で肉とならない言葉は、「単なる言葉」に留まります。そのような言葉には、私たちの人生に影響を及ぼすような力はありません。誰かが「君を愛している」といっても、本当に愛していないなら、その言葉は益になるどころかかえって害をもたらすでしょう。しかし同じ言葉を心から語ることが出来るなら、それは新しいいのちを生み出します。
 私たちは自分の言葉の源泉に常に触れていることが大切です。私たちにとって大きな誘惑となるのは、「喜ばせ屋」になってしまうことです。「喜ばせ屋」は人の気を引くのにぴったりの言葉を語りはしますが、語る言葉はその人の内面的ないのちに根ざしてはいないのです。私たちは語る時、言葉が私たちの心に根ざしたものであることを常に確かめるようにしたいものです。その最善の方法は、祈りに満ちた沈黙にあります。


肉は言葉となる   6/24

 言葉は肉とならねばなりません。しかし、肉もまた言葉とならねばなりません。私たち人間にとっては、ただ生きるだけでは十分とは言えません。同時に私たちはどのように生きているかを言葉にしなければなりません。どのように生きているかを語らないなら、私たちの人生は活力と創造性を失ってしまいます。美しい景色を見たら、見ているものを表そうと言葉を探します。心やさしい人に出会ったらその出会いについて語りたくなります。悲しみや大きな苦しみに遭うと、その悲しみや苦しみについて語る必要を感じます。喜びで驚いた時には、その喜びを告げ知らせたいと思うのではないでしょうか。
 言葉を通して、私たちはどのように生きているかを自分のものとし、内面化します。言葉は、私たちの経験を真に人間的なものとしてくれます。


コミュニティーを作り出す言葉   6/25

 言葉は、常に他の人々に向けられたものです。言葉は聞いてもらわねばならないものです。私たちがどのように生きているかを言葉にする時、その言葉は受け止め、応えてもらうことを必要としています。語り手は聞き手を必要とします。書き手は読者を必要とするのです。
 肉―人間が歩んだ経験―が言葉となる時、コミュニティーが生まれます。「見たことを話させてください。私たちのしたことを聞きに来てください。座って私たちに起こったことを聞いてください。私たちが出会った人のことを聞き終わるまで待ってください」と言う時、私たちは人々を呼び集め、自分自身の人生を人のための人生へと変えます。言葉は私たちを繋ぎ、交わりへと呼びかけています。肉が言葉となる時、私たちそれぞれの体は人類という一つの体の一部となるのです。