2016年7月16日土曜日

雑感

月に一回、東京からM伝道者が来てくれる。忙しいのに家族で来てくださり、時には兄姉を伴ってきてくださる。今回もN 姉妹が一緒に来てくださった。彼女はもう四回か五回来てくださっている。感謝なことである。前々回だったかMファミリーも上柴集会の集まりの後、丑三つ時ではないが夜中に和田峠を超えて来てくださった。その時鹿との遭遇を経験したそうだ。私はまだその経験はないのだが…。

信州には幾つかの集会があるが「岡谷?」という知られざる集会なのにである。小さな集会に奉仕してくださるM 兄、そして一緒に来てくださる兄姉、またクリスマスには千葉の先から家族で来てくださる。おんぶにだっこの集会なのである。こうなると開き直って「お返しなしで戴くものは戴く、お返しは主から貰ってください」という心境になってくる。まさに無礼である。

訓練され、整えていなければ伝道や奉仕はできない。そして、来られる兄姉を見てよく訓練されているといつも思う。その対極にあるような集会であるがこれはまたこれで存在意義があるのかなとも思わされている。救いをはじめ奉仕もこれは恵みであり、努力して得るものではない。勿論棚ぼたで恵みは来ないが「恵みによって救われている」ということを発信しているのかなと思っている(多少開き直りながら)。生まれた後の育ちがと問われると言葉はないが…。

彼らを見ていると若い兄姉であってもキリスト者として尊敬できる。それと彼らは社会的にも能力があって置かれたところで活躍している姿見ると何か連動しているのかなと思わされることがある。それはそれで素晴らしいことであるがその対極にあるものがあってもいいのかなと思っている。主にある俗に言う不肖の息子、娘があってもいいのではないか…。正直言うと私は前者には入れないからその受け皿をとの思いも無きにしも非ずなのである。

私たちは無意識の中に信仰生活に社会の論理を持ち込もうとしているのではないだろうか。子どもがいつまでも親のすねをかじっていては困る。いつか自立するのが当然である。この論理が信仰生活にも生きているように思える。そして因果応報も生きている。自分もその罠にしっかりハマっていることも自覚している。