2016年7月17日日曜日

今日のパン、明日の糧より

裂かれる   7/15

 イエスは十字架の上で引き裂かれました。何としてでも避けたい悪としてではなく、進んで受け入れるべき使命として、苦しみと死を味わわれたのでした。私たちもまた裂かれています。引き裂かれた体、引き裂かれた心、引き裂かれた精神、引き裂かれた霊を持って私たちは生きています。そして引き裂かれた関係に私たちは苦しみます。
 どうやって引き裂かれたままで人生を生きて行くことが出来るでしょうか。イエスはご自身が十字架を進んで受け入れ、それを使命の一部として生きられたのと同様に、私たちもまた自分が引き裂かれている事実を進ん受け入れ、それを自分の使命の一つとして生きて行くようにと招いたおられます。引き裂かれていることを、私たちが罪深い者であることを思い起こさせる、神の呪いとして拒むのではなく、引き裂かれている事実を受け入れることが必要です。そして、私たちが浄められ聖とされるための祝福を受けることが出来るよう、その事実を神のもとに置くことをイエスは願っておられます。このように、私たちが引き裂かれたものであるということは、新しいいのちに到る道となるでしょう。


与えられる   7/16

 イエスはこの世界に与えられました。イエスが選ばれ、祝福され、裂かれたのは、与えられるためです。イエスの生と死は、人々のための生と死です。永遠から選ばれた神の愛するみ子は十字架の上で引き裂かれました。それはつまり、この一つのいのちが増えていき、あらゆる時と場所を超え、すべての人々の食物となるためでした。
 神によって選ばれ、祝福されている子として生きる時、神の愛する子としての私たちの小さないのちは引き裂かれ、人々に与えられるということを信じることが大切です。私たちもまた、この世のパンとならねばなりません。祝福のもとにありながら引き裂かれたものとして自分たちの人生を生きる時、私たちのいのちは世代から世代へと実を結び続けるでしょう。すなわち聖人たちは死似ましたが、彼らの後に生きている人々の心に生き続けています。それが聖人たちの物語です。これはまた、私たちの物語となることが出来るのです。