2016年8月20日土曜日

聖書雑感

7月の初めから読み始めてようやくヨシュア記を読み終え、今士師記に入っている。ゆっくり読んでももう頭に入り難くなっているのでどうせ入らないなら一年で読み終えるように一日4章の目標で読むようにしている。といっても腹八分目ではないが一週間は七日ではなく五日の感覚で何事もやっているので少し余分に読まないといけない。経堂集会から送ってもらっている週報の一ページにT兄の聖書の学びが載っている。いつ終わるのだろうと思うほど実に細かく深い、よくここまでと感心しながらつたない聖書の知識を駆使?して読んでいる。しかし、この歳になるともう読みづらいことこの上ない(若くても変わらないのかもしれないが)。細かいところに神様のすばらしさがあることは分かるが深さは彼らに任せて森を観るように大雑把に神を味わいたいと思っている。しかし、非常に人間臭い見方をしている現在でもある。

創世記の最後の方にヤコブは族長になる息子たちとその部族の有様を語っている。彼らの行く末を冷静に見ている姿を思い浮かび彼の人なりを知る思いがある。申命記の最後にモーセは各部族を祝福している。何かモーセの人となりを感じさせる。ここからヤコブとモーセとでは受ける印象は大分違う。置かれている状況が違うから何とも言えないが何か二人の個性の違いをあのような見方になっているのかなと思ってしまう。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と言われるヤコブであるがあまり好きではない。モーセは荒野を導いていくリーダーであってもどこか控え目である。神から引き出されたリーダーでもある。


deut 26: 5-10
あなたは、あなたの神、主の前で、次のように唱えなさい。「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。
エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに過酷な労働を課しました。
私たちが、私たちの父祖の神、主に叫びますと、主は私たちの声を聞き、私たちの窮状と労苦と圧迫をご覧になりました。
そこで、主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、
この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。
今、ここに私は、主、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前に礼拝しなければならない。


イスラエルの民の原点である。ここから逸脱すると士師記以降にある彼らの姿が露わになる。これは私の姿でもある。彼らと違うのは救い主の哀れみと恵みを受けていることである。これはとても大きい。