2016年8月18日木曜日

今日のパン、明日の糧より

8/12   イエスの隠された人生

 イエスの生涯の大部分は隠されていました。イエスは両親と共に、両親に仕えてナザレに暮らしていました(ルカ2・51参照)。そこでイエスは「知恵が増し、背丈も伸び、神と人に愛され」(ルカ2・52)ました。イエスについて思い巡らす時、多くの場合イエスが語られたことや奇蹟、受難、死、復活が頭に浮かびますが、何よりもまずイエスは偉大な人々や偉大な町、偉大な出来事からはるか遠く離れた小さな町で、簡素に、隠れて生きておられることを忘れてはなりません。イエスの隠された人生は、私たち一人ひとりの霊的な旅路にとって、とても大切です。み国のために、言葉と行いによってイエスに従おうとするなら、何よりもまず、簡素であまりパッとしない、ごく普通の隠された生活の中で生きられたイエスに従う努力をしなければなりません。


8/13   隠されていること、親しみの場所

 隠されているということは、霊的な生活にとって欠くことの出来ない要素です。孤独、沈黙、普通の仕事、立派な計画もなしにただ人々と一緒にいる。眠る、食べる、働く、遊ぶ、こうした他の人々と何ら変わるところのないすべてのこと、それがイエスの生きた人生であり、イエスが私たちに求めておられるのもそのような人生です。私たちがイエスのように「知恵が増し、背丈も伸び、神と人に愛さ」れるようになる(ルカ2・52)のは、隠されていることにおいてです。また、私たちが神との本当の親しい関係、人々への本当の愛を見出すことが出来るのも、隠されていることにおいてです。
 多忙な活動の間にあっても、イエスは神と二人だけになるために、絶えず隠れた場所へと戻って行かれました。神との隠れた生活がないなら、私たちの、神のための公の生活が実を結ぶことはないでしょう。


8/14   隠されていること、浄化の場所

 隠れていることが、霊的な生活にとってこのように重要な側面である理由の一つは、隠れていることで私たちは神に集中できるからです。隠れていれば、人からの喝采や賞賛、援助、励ましなどを受けることはありません。隠れたままの姿で神のところへ喜びや悲しみを携えてゆくなら、神は私たちが最も必要としているものを必ずお与えになる、ということを信じることが大切です。
 私たちの社会では、隠れていることを避けがちです。私たちは人々に見られ、認められることを望みます。人々の役に立ち、ことの成り行きに影響を及ぼしたいと願います。しかし、人目に触れ、人気を博するようになると、人々やその応答に依存するようになります。そして、私たちの存在の源である神との触れ合いの場を失いやすくなります。隠れていることは、浄化の場になります。隠れていることの中で、私たちは真実の自分に出会います。


8/15   隠れ続ける方法

 もし本当に、霊的な生活に隠れた部分が不可欠であるなら、ごく一般的な生活のただ中において、どのようにすれば隠れたままでいることが出来るでしょうか。隠れた姿を保つ特に重要な方法が二つあります。それは、一人になることと貧しさです。孤独は私たちを神と二人きりにしてくれます。私たちはそこで、自分は人々に属するのでも、自分を愛し心にかけてくれる人々に属するのでもない、ただ神に、神のみに属するものであることを経験します。貧しさの中にある時、私たちは自分自身の、そして他の人々の弱さ、限界、援助の必要を経験します。貧しいとは、成功もなく、名声もなく、力もないことです。しかし、神はその貧しさの中で、ご自分の愛を私たちに開き示されます。
 孤独と貧しさとは、私たちの生き方が隠された者であることを守ってくれます。