2016年8月23日火曜日

今日のパン、明日の糧より

8/18   神の宿る場である貧しさ

 私たちの周りにいる誰もが金持ちになりたいと思っているのに、どうすれば神に至る道としての貧しさを受け入れることが出来るでしょうか。貧しさには多くの姿があります。「わたしの貧しさって何?」と自分に尋ねてごらんなさい。それは、お金がないことですか。感情が安定していないことですか。自信がないことですか。人間だれしも、どこか貧しいところを持っています。そこが、まさに神が宿ろうとしておられるところです。「貧しい人々は幸いである」(マタイ5・3)とイエスは言われます。すなわち貧しさの中に私たちにとっての祝福が隠されているということです。

 私たちは自らの貧しさを覆い隠したり、無視しようとするあまり、貧しさの中に宿っておられる神を見つけるチャンスをしばしば見逃しています。私たちの宝物が隠されている場である自分の貧しさを、思い切って見てみようではありませんか。


8/19   貧しい人々の中におられる神に出会う

 自分自身の貧しさを恐れずに言い表す時、私たちは、それぞれに貧しさをもった他の人々と一緒にいることが出来るようになるでしょう。私たちの貧しさの中に住まわれるキリストが、他の人々の貧しさの中に住まわれるキリストを見出すからです。自分の貧しさを無視しがちな私たちは、同様に他の人々の貧しさをも無視しがちです。私たちは、極貧の中にある人々に会わないですむなら会わずにいたいし、体に障害を負った人々に目を向けたくありません。人々の苦しみや悲しみについて語るのを避け、傷つき、助け手もなく、援助を必要としている人々の状況から遠ざかろうとしてしまいます。
 このように避けてしまうことで、私たちは人々との接触を失ってしまいます。その人々を通して、神が私たちにご自身を現そうとしておられるのに、けれども、私たち自身の貧しさの中にいてくださる神を見出した時、私たちは貧しい人々を恐れなくなり、神に出会うために貧しい人々のところへ出かけていくようになるでしょう。


追記
 マタイ伝の貧しさもルカ伝の貧しさも兼ね備えているがマタイ伝の貧しさは一時的なものであれ黙していれば人にはわからない(箴言17・28)。ルカ伝の貧しさは外見で分かる。だから分からないように繕おうとしてしまう。そこに弱さがあるのだろう。ここを克服するのは難しい。「貧すれば鈍」している現在である。