2016年8月30日火曜日

今日のパン、明日の糧より

いのちを選ぶ   8/30

 神は言われました。「わたし……生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたはいのちを選び、あなたもあなたの子孫もいのちを得るように」(申命記30・19)と。「いのちを選びなさい」。それが神の私たちへの呼びかけです。私たちがその選択をしなくてもよいような瞬間はありません。生と死は常に私たちの前に置かれています。私たちの想像、考え、言葉、仕草、行動において、さらに何もしていない時でさえも、このいのちを選ぶ選択は深いうちなるところで始まります。紛れもなく生を肯定するような行動をしているのに、より深いところでは死を思い、死を感じていることも出来ます。最も重要なのは、「殺すか」ではなく、「心に祝福を抱くかそれとも呪いを抱くか」という問いかけです。人を殺す弾丸は、憎しみの最後の道具でしかありません。銃を手にするよりも前に、憎しみは長く心の中に巣くっているのです。


修練の選択   8/31

 私たちの理性や心を占めているたくさんの思いや感情を注意して見てみると、驚くことに私たちはしばしば、いのちの代わりに死を、祝福の代わりに呪いを選んでいることに気づきます。嫉妬、やっかみ、怒り、恨み、物欲、色欲、悪い、復讐心、憎悪などが私たちの精神生活の大貯水池の中に浮遊しているのです。時として私たちはこれらの思いや感情のあることを当たり前のものとみなし、それらが破壊的な働きをするまま認め、放置してしまいます。
 しかし神は私たちにいのちを選ぶこと、そして祝福を選ぶことを求めておられます。この選択をするには限リない内的修練を要します。私たちの中にある死
の力に気づくことの出来る大きな注意力と、いのちの力で思考や感情を治めるようにする、というしっかりとしたコミットメントが必要です。これらはいつも一人で出来る訳ではありません。私たちを導いてくれる指導者や愛情深いコミュニティーの支えが度々必要になります。そして内的修練を重ねることと他の人からの支えを求めることはどちらも、私たちがいのちを選ぶために重要なことです。