2016年9月1日木曜日

炊き出しの列に並ぶイエス

関根一夫牧師の礼拝のメッセージをユーチューブで聴いている。賛美をメッセージの前後に半分近くもしている。賛美の集会とでも言ってもいいのかもしれない。自作の詩に岩渕真さん作曲が多いみたいだ。最近後半に聖歌からも賛美している。集会では伝道出版社の礼拝讃美歌からしか賛美しないので聞こえてくると懐かしく感じる。


8/28のメッセージの最後の方にタイトルの版画を紹介していた。これは本田哲郎著〔釜ヶ崎と福音」(岩波現代文庫)の表紙に飾ってあるのを引用されたようである。釜ヶ崎の「いこい食堂」というところに複製されたものが飾られているそうだ。この作者はフリッツ・アイヘンバーグさんといってアメリカの方でもう亡くなられた方である。

イエス像は人によって色々であり、その捉え方でその人の信仰の有様がわかるような気がする。私は底辺で生きてきたし、今もその進行形の中にいるから「サマリヤの女」や「ベテスダで38年間患っている男」を尋ねている「仕えるイエス像」に共感する。

低くなられたイエス様、これが最高だと思っていたがさらに低くなって施す側ではなく施される側に立っている姿は逆に神々しい。罪を犯し易く、弱く、臆病な私であるがそこに同じように立っているイエス様がおられる。私たちが忘れていた否気がつかなかったイエス像である。そして、何も持っていないのになんて高慢な私であるかを思い知らされた。常に低い者の側に立つキリスト者でありたい。