2016年10月30日日曜日

今日のパン、明日の糧より

10/26   憐れみ、共に苦しむ権威

 教会は、しばしば私たちを深く傷つけます。宗教的権威をもった人々が、言葉や態度、命令などで、私たちを傷つけることがよくあります。宗教が生と死の問題にかかわるものであるというまさにその理由のために、宗教的に繊細な感受性を持つ私たちはいとも簡単に傷ついてしまうのです。批判的なちょっとした一言や拒絶の仕種、イライラした態度などが、それを受けた人々の記憶に生涯どれほど残ってしまうものであるかを、牧師や神父はほとんど分かっていません。
 生きる意味や、慰めと励まし、許しと和解、回復と癒し、これらのものを探し求める渇きはあまりにも大きいので、いかなる形であれ教会で権威を持っている人は誰でも、次のことを絶えず思い起こす必要があります。すなわち、宗教的権威の性格を表す最もふさわしい言葉はコンパッション(共に苦しむ心)であると、イエスを常に見つめていましょう。イエスの権威は、コンパッションによって示されました。


10/27   教会を許す

 人々が教会に傷つけられた時に起こる誘惑は、教会を拒絶しようとすることです。けれども教会を拒否するなら、生きておられるキリストの身近に生きることは非常に難しくなります。「イエスは好きだけど、教会は嫌い」と言う時、私たちは教会ばかりかイエスをも失うことになります。私たちに問われているのは、教会を許すことです。この課題が容易なものでないのは教会が公式に私たちに許しを求めることはめったにないからです。私たちの間にあって生きておられるキリストである教会が、私たちに許しを与え続ける一方で、過ちを犯しがちな人間の組織である教会は、私たちの赦しを必要としているのです。
 教会は「あそこにある」といったものではなく、喘ぎもがく弱い人々からなるコミュニテイ-です。私たちはその一部であり、その人々の内に主であり救い主である方に出会っています。教会をこのように考えることが大切です。


10/28   霊的指導者

 キリストのからである教会にはいろいろな顔があります。祈り、礼拝をささげる教会。教えと癒しの言葉を語る教会。私たちを罪から清め、主の食卓へ招き、愛の契約によって一つに結び、宣教の働きへ送り出す教会。私たちが病気にかかった時や死に臨む時、油を塗り、支えてくれる教会。生きる意味を探し求め、絶えず支えを必要とする私たちの密ずれとなってくれる教会。このような顔のどれも、私たちが指導者として仰ぐ人々からは見えて来ないかもしれません。けれども、イエスは私たちの教会の中で、教会を通して、私たちのところへ来られると心から信じて生きているなら、思いもかけないところや場面で、教会のいろいろな顔や働きを目の当たりにすることでしょう。
 心からイエスを愛しているなら、イエスは私たちが一番必要としてるものを与えてくれる人々を送ってくださるでしょう。それが、私たちの霊的な指導者にほかなりません。


10/29   多くの部分からなる一つの体

 教会は一つの体です。パウロは言っています。「一つの霊によって、私たちは、…皆一つの体となるために洗礼を受け」(1コリント12・13)たと。しかし、この一つの体には、多くの部分があります。パウロが言うように、「すべてが一つの部分になってしまったらどこに体というものがあるのでしょう。だから、多くの部分があっても一つの体なのです」(1コリント12・19、20)。誰でもすべてのものになることは出来ません。私たちはしばしば体のある部分に、他の部分のものである役割を果たすよう期待します。けれども、手に見ることを求めたり、目に聞くことを求めるのは無理な話です。
 私たちはともにキリストの体であって、一人ひとりに、全体の中で果たす役割があります(1コリント12・27参照)。私たちこの体の部分、すなわち限界がありながらそれぞれに大切な部分であることに感謝の念を持っていたいものです。