2016年12月31日土曜日

孫の面倒を


息子から電話があり「年末で保育室がお休みなので子供を」と言われ、今遠い信州から東京に来ている。寒い信州から暖かい東京へと喜び勇んで来て見たが寒い、信州とあまり変わらない感じである。多摩の下の息子を宿に世田谷の息子の孫の面倒を見るために朝まだ暗い6時半ごろ家を出る。昔設備の仕事をしている時を思い出した。あの時も暗いうちに家を出て駅に着くころ白々と明けてきた。タイムスリップしてこんな経験をするとはと思ってしまう。

子どもたちが小さい時の経験は殆んどナシであるからこちらはタイムスリップなしである。家内と一緒だから細かいことは家内に任せとと臨んだがこんなに手がかかるとは思わなかった。いかに父親として手抜きをしていたかが如実に分かった。なんせ二人の息子のオムツを変えた記憶は数回もない。仕事が集会の奉仕が優先する時代だった。それでもちゃんとやっていたご夫婦は多かったが私にはそんなゆとりはなかった。主が第一は集会第一みたいな雰囲気があり、本当はそうではないのに信仰に忠実みたいな錯覚を起こしていたようだ。お蔭で息子たちは…とワンパターンのように書いてしまう。

お母さんが出かける時あらん限りの鳴き声を上げていたからどうなることかと思っていたら少し経つとケロッとして遊びだし、人見知りもせずに相手にしてくれる。保育室に通っているから親以外の人と接するからその所為かなとホッとする。それと食べるときの勢いの良いこと限りなしである。ニコニコしながら大きな口を開ける。しかし、少し手間取ると体をそっくり返って泣きわめく、あげる順序が自分の思いと違う時は同じようにやるから中々手こずる。オムツも昔と違ってよくなっているから楽である。オムツ替えもこの三日間で二人の息子たちの一生分をやってしまった。誠に息子たちには申し訳なく思ってしまった。暗くなりかける頃から少しおとなしくなるのでお母さんが迎えに来る頃を知ってその時間を感じるのか少しおとなしくなる。しかし、お母さんもお父さんも帰って来ても飛び上がるほど喜ばない。面白いことをやると一緒に喜びながら遊ぶ、それでも親がそばにいる安心感みたいなのが何となく感じる。本をと思って持ってきたが何も読めなくて楽しいようなしんどいような三日間であった。明日は以前いた集会の礼拝に8年ぶりかで出席できるのが楽しみである。そしてその後、嫁さんと孫を乗せ、孫の面倒見で疲れてしまった家内を多摩で拾って信州諏訪へ、嫁の実家に二人を下ろしていつもの生活に戻る。貴重な年末になり、来る年もいつもと違った年始にそして一年になってくれることを望みながら…。