2017年2月21日火曜日

祝福に満ちて


以前にも書いたが東京から定期的にMファミリーが来てくださる。一月と八月は忙しいので来られないが他の月は欠かさず来てくださり、すでに今年一杯の予定も入れて下さった。M兄は一月八月だけでなく他の月も忙しく集会の責任者の一人でありながら日曜日に集会にいない月もあるそうだ。既に召されたO兄も伝道者として忙しく各地で奉仕されて、お蔭でご自分の集会の礼拝に集うのはまれであったと聞いていた。ある時集会の兄弟に「O兄、うちの集会でも招きましょうか」と言われたと笑いながら話してくださったことを思い出す。M兄も集会の週報を見ると最低二回は他の集会の奉仕に出掛けている。その一つは我が小さき群れのために労してくださっているのである。

12日に学生の姉妹二人を伴って来てくださった。スライドを使って世界の動きからある映画から神について私たちについて語ってくださった。そこで感じたのはお話しが難しいとか分かりやすかったという観点で見るべきものでなく御霊が働かれたか否かであることをあらためて教えられた。その判断はどのようにと問われると答えに窮するが、しかし、然りと言うほかない。

来られる前日に今集会を休んでおられる姉妹からメールをいただいた。「M兄はいつ来られるのですか」と他のこともいくつか書かれていたのでそのついでに書かれたのかなと思いながら「明日来られます。お顔を拝見できたらうれしいです」と返事を書いたが当日午前中には来られなかったのでやっぱりかと諦めいた。そうしたら午後の集会にご主人と来られて驚き早計に結論を出した自分を恥じた。しかし、その後いただいたメールに「気後れして行くつもりはなかったが主人がいつ見えるの今日なら行こうよ」と背中を押されて来たことを書いてくださった。ご主人はキリスト者ではないがクリスマスなどに何度か来られている。「牛に引かれて善光寺参り」ではないがこういう形もあるのかと主に感謝する。

午前の集りには二人の姉妹のご主人が来られてメッセージを聞いてくださった。一人のご主人はクリスマスには何度か来られたがこのような集まりには初めてだったと思う。集会に集うつもりはないが話は分かると言っているそうで嬉しい。このままスムーズにつながるとは思わないがこのことを通して励ましとチャレンジを与えられたような気がする。祝福を受けたければ低くならなければならない。高ぶっていたら祝福はすり抜けて行くような気がする。そして信仰とはと問いかけてくる。自分の祈りは祈りと言うより自分の願望を神の前に語っているに過ぎないのではないかと、信じること物事がスムースに行くことは悪いことではないが本質的なものではない。主の栄光をと思いながらももし身に火の粉がと思うと尻込みをしてしまう信仰なのである。

唯一の集会は十時半から始まって十二時に終わるアッという間の集会だがこの時は午後いっぱいの集会でそれだけでもどこか満たされる。マルタのようにじっと傍でお話を聞いていても私を始めすぐ忘れる年寄りの集団であり(O兄ファミリ申し訳ない)、「寒いかな?雪は?」とマルタ的発想の群れでもあるから(他の兄姉は反論しそう)目に見えるもので右往左往している。しかし、彼らが帰った後は形は色々違っていても祝福を受けたことを実感させてくれる。ペテロの告白を思い出す。
luke: 5: 8
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
感謝の前に「主よ不信仰の私をお許しください」と告白せざるを得ない。

こんな集会なのに優先して来てくださり、遠くて小さな群れなので恐縮と感謝が入り交ざった複雑な心境であることも事実である。このような小さな群れであるが彼らを通して主の憐れみと祝福された群れでもあることを教えられる。そして報いは主から直接と…。